豊臣家の完全な滅亡で終った大坂夏の陣。そこでは敗れたとはいえ、豊臣秀頼に忠誠を尽くして散っていった戦国の最期のサムライ達が存在していました。
NHK大河ドラマ「真田丸」でも有名な真田信繁、大野治房、後藤又兵衛。しかし、凄絶に散った彼らの子孫については意外に知られていません。そこで、今回は大坂の陣のメジャー武将、大野治房と後藤又兵衛の子孫を襲った数奇な運命について紹介します。
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大坂の陣の参加者をあっさり許した徳川幕府
注意深い人は、リード文を見ただけで違和感を持ったでしょう。大野治房や後藤又兵衛の子孫って何?戦争に敗れたんだから後顧の憂いを絶つために可哀想だけどと殺されたんじゃないの?
ところが意外にも、徳川幕府は大坂の陣の参加者に赦免を出すのに前向きでした。豊臣秀頼に従い戦った豊臣家の家臣についても、悪いのは秀頼であり家臣は忠義を尽くしただけという理由で、元和3年(1617年)8月には許された上に、どこの家中でも彼らを召し抱えても問題なしとしています。
また、大坂の陣に参加する為に大阪城に入った新参牢人衆にも元和9年には赦免の事実が確認されます。つまり、大坂の陣から10年経過しない間に、豊臣家恩顧の武将やその子孫、牢人者は、全て無罪放免になり、こそこそ逃げ隠れしないでよくなったのです。ですので、前述の大野治房や後藤又兵衛の子孫も先祖に関係なく、普通の村の住人として平穏な生活を営んでいました。
老人、大野治房を追う幕府
いかに、豊臣家ゆかりの人物を赦免すると言っても、降伏していない人間は別でした。
例えば、淀殿の乳兄妹、大野治長の弟大野主馬治房は、大坂夏の陣最後の戦いにおいて、豊臣方の岡山口の主将となり、将軍徳川秀忠の陣に肉薄する活躍を見せ、秀忠に槍を取らせたと伝えられていますが、その後戦場を逃れて消息不明になりました。
一般には、治房は豊臣秀頼の息子の国松を連れて逃げて捕らえられ共々処刑と伝えられますが、それは土屋知貞私記の誤りで処刑されたのは国松一人でした。
豊臣方の大物である大野治房の捕縛に時効は無く、徳川幕府は大坂夏の陣から30年以上も経過した慶安2年(1649年)七十歳を超えた大野治房が生存しているという情報を得た幕府は捕り方を派遣しています。淀殿の乳兄妹であり、将軍秀忠に槍を取らせたような大物は、いかに老衰していても捕らえずには気が済まなかったのでしょうね。
生臭坊主の腹いせで大野治房の身内が逮捕
前述の大野治房の捜索には、ある事件が関係しています。当時、近江国坂田郡箕浦に誓願寺という浄土真宗本願寺派のお寺がありましたが、この誓願寺の末寺の僧侶に生臭坊主がいて、誓願寺は持て余して追放してしまったのです。
それを逆恨みした坊主は、故郷である摂津国高槻城主の永井直清の所に直訴に出ました。
「大野治房の嫡男が箕浦の誓願寺で保護されて生きている。しかも豊臣方の残党を集めて本願寺と組んで幕府転覆を企てている」
生臭坊主の言った事は事実で箕浦誓願寺の住職の妻は大野治房の長女で、治房の母も家におり、治房の息子も彦根城下で寺子屋を開いて暮らしていたのです。
事態を重く見た永井は京都所司代と幕府の老中に知らせ、幕府は彦根藩に命令を下して、大軍勢で誓願寺を包囲しました。同時に彦根城下にいた治房の息子も捕らえられましたが、治房の姿はありません。
そこで幕府は、人相書きを手広く配布して情報を集め、西本願寺にも豊臣方の残党を匿っていないだろうな?と圧力を掛けたのです。西本願寺にしてみたらとばっちりもいい所でした。これらの事件の顛末は箕浦誓願寺記という史料にあり、結局誓願寺は豊臣方の罪人を匿った罪で取り潰されてしまいましたが、後に復興しました。
豊臣の残党と謀反を起こすという話はデマだったようですが、治房を匿った罪は許されず、治房の息子は処刑されたとも言われています。可哀想な話です。
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