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罷免された後漢最期の司徒、趙温
曹操が丞相府を置いた時、三公は有名無実になっていて、残っていたのは司徒の趙温という人物だけでした。彼は家柄がよく、長い間献帝に仕えていたというだけの人で曹操は呆気なく罷免してしまいます。その罷免理由は、曹操の息子の曹丕を辟召し関心を買おうとした阿諛追従というものだったようです。
魏の建国により復活する三公
曹操の死後に空位となった丞相に代わり復活したのは三公でした。西暦220年、曹丕は曹操の後を継ぐと、献帝に禅譲を迫って後漢を滅ぼし魏を建国。そして、曹魏建国の功臣である、賈詡を大尉、華歆が司徒、王朗が司空になっています。
曹丕が三公を復活させたのは、ベンチャーなオールマイティ君主が幅を利かせた群雄割拠の時代が終わり、魏・呉・蜀という組織化が完成した大国同士の総力戦が開始される時代の転換点を示す出来事でもありました。
幻の丞相、司馬懿
曹操の死後、魏の建国で三公が復活しました。それは、直ちに丞相職の廃止を意味する事ではありませんでしたが、曹操没後の長い期間、魏では、丞相は空位のままだったのです。
大きな理由は、魏の太祖武帝が就任していた事もあり畏れ多いという事や、権限の強大さから、うっかり引き受けると、君主から猜疑の目で見られたら誅殺されるのを免れないからでしょう。
しかし、そんな、畏れ多い丞相に成れそうだった人物がいました。司馬仲達です。西暦249年、高平陵の変を起こした司馬懿は、権力を独占していた曹爽一派を追放した上で粛清し遂に並ぶ者がない権力の頂点に立ちます。
これに対し、朝廷は丞相の位で司馬懿に報いようとしますが、用心深い司馬懿は、これを堅く固辞して受けませんでした。これにより結局、魏における丞相は曹操一代限りという事になりました。ちなみに、司馬懿の息子の司馬昭は、丞相よりも上の国相に任じられ、それを足掛かりに本格的な晋朝の建国に動いていきます。
三国志ライターkawausoの独り言
今回は、曹操が三公を廃止して丞相府を置いた理由について解説してみました。一般には、合議制の三公から曹操へ権力を集中する制度として説明されがちな丞相ですが、その支配下に武衛府を置いて、宮殿の衛兵を指揮する権限を与えたというのは、案外、盲点だったのではないでしょうか?
考えてみると何進にせよ董卓にせよ、後年には諸葛恪にしろ宮中で衛兵に包囲されて殺害されたケースは多いので、曹操の丞相府のアイデアは、そのような暗殺から学んだ曹操の工夫とも考えられますね。
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