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この記事の目次
後漢の玉璽はなかなかに小さかった
ところで、伝国の玉璽とは、どんな形をしていたのでしょう。後漢書の記述によると、許に戻って来た徐璆に司徒の趙温が、大変な思いをしてきたのに、伝国璽を保有してきたとは立派な事ですと褒めると、徐璆は「昔、蘇武は匈奴に抑留されながら、七尺の節を失いませんでした、ましてや一寸四方の印なら当然です」
このように答えている事から、伝国璽は3㎝四方の小さな印鑑であった事が推測されます。
玉璽が守られたのは袁術のお陰
袁術の最期は悲惨で、荒廃した都の寿春を放棄して北の袁紹を頼ろうとするも、曹操が派遣した劉備と朱霊に阻止され、周辺をウロウロした挙句に食料も尽き、病を得て、血を吐いて絶命したというものです。
袁術は天子の位を袁紹に譲ろうとしていたと言われ、だとすれば伝国璽も携えていたであろうことは容易に予想されます。つまり、ギリギリまで玉璽は袁術と共にあったのでしょう。
袁術の死後、袁術の一族は、従弟袁胤に引き継がれて最終的には盧江太守の劉勲に身を寄せ、劉勲が孫策に破られるに至って、呉に吸収されるのですが、徐璆はその前に別行動を取っていたと考えられます。一緒であれば、孫策を介して許に送還されそうなものだからです。
食料もない中、袁胤は生きる事に精一杯で玉璽を顧みる余裕もなかったのでしょう。その中で律儀な徐璆だけが、玉璽に気を配ってこっそり回収し苦難を乗り越えて献帝に返還したのだとすると、悪行三昧と言われる袁術が無理やりにでも徐璆を引き連れていた事が、伝国璽を守る事に繋がった事になります。
つまり袁術は玉璽を守り抜いて、後世に繋ぐ役割を果たしていたんですね、、え?違う?
三国志ライターkawausoの独り言
まさか袁術の玉璽はフェイクでもイミテーションでもなく、由緒正しき後漢の伝国璽だった可能性もあるとは、はちみつオジサン袁術に今後も目が離せませんね!
参考文献:後漢書徐璆伝 正史三国志
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