【意外な事実】袁術は本当に伝国の玉璽を持っていた!


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袁術は玉璽を持っていた?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢の玉璽はなかなかに小さかった

徐璆

 

ところで、伝国の玉璽とは、どんな形をしていたのでしょう。後漢書の記述によると、許に戻って来た徐璆に司徒の趙温(ちょうおん)が、大変な思いをしてきたのに、伝国璽を保有してきたとは立派な事ですと褒めると、徐璆は「昔、蘇武(そぶ)匈奴(きょうど)に抑留されながら、七尺の節を失いませんでした、ましてや一寸四方の印なら当然です」

 

このように答えている事から、伝国璽は3㎝四方の小さな印鑑であった事が推測されます。

 

玉璽が守られたのは袁術のお陰

袁術

 

袁術の最期は悲惨で、荒廃した都の寿春を放棄して北の袁紹を頼ろうとするも、曹操が派遣した劉備(りゅうび)朱霊(しゅれい)に阻止され、周辺をウロウロした挙句に食料も尽き、病を得て、血を吐いて絶命したというものです。

 

袁術

 

袁術は天子の位を袁紹に譲ろうとしていたと言われ、だとすれば伝国璽も携えていたであろうことは容易に予想されます。つまり、ギリギリまで玉璽は袁術と共にあったのでしょう。

 

袁胤(えんいん)

 

袁術の死後、袁術の一族は、従弟袁胤(えんいん)に引き継がれて最終的には盧江太守の劉勲に身を寄せ、劉勲が孫策に破られるに至って、呉に吸収されるのですが、徐璆はその前に別行動を取っていたと考えられます。一緒であれば、孫策を介して許に送還されそうなものだからです。

 

汚職政治と闘う徐璆

 

食料もない中、袁胤は生きる事に精一杯で玉璽を顧みる余裕もなかったのでしょう。その中で律儀な徐璆だけが、玉璽に気を配ってこっそり回収し苦難を乗り越えて献帝に返還したのだとすると、悪行三昧と言われる袁術が無理やりにでも徐璆を引き連れていた事が、伝国璽を守る事に繋がった事になります。

週刊誌を楽しみにするkawauso様

 

つまり袁術は玉璽を守り抜いて、後世に繋ぐ役割を果たしていたんですね、、え?違う?

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

まさか袁術の玉璽はフェイクでもイミテーションでもなく、由緒正しき後漢の伝国璽だった可能性もあるとは、はちみつオジサン袁術に今後も目が離せませんね!

 

参考文献:後漢書徐璆伝 正史三国志

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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