滅びる時は何をしても滅び、滅びない時は何をしていても滅びないのが歴史の面白さであり、胆であるのではないかと思います。それを考えると蜀滅亡、呉滅亡、そして魏から晋へと時代が移り変わるのは必然であったのかもしれませんね。
それでも人は過去にどうしてこうなったのか、という理由を探してしまうもの。そこで今回は筆者なりに蜀滅亡の原因を話してみたいと思います。
この記事の目次
滅亡の足音
蜀滅亡の原因の一つであり、スタートと言えるのは筆者的には関羽です。樊城で関羽が敗北したこと……も大きい原因の一つですが、ここで呉との関係が物凄く悪化してしまっていたのが大きな要因だと思います。
というのも強大な魏に対抗するには、蜀と呉は協力しなければいけないのに、その形を壊してしまったからです。関羽の呉への尊大な態度は自らだけでなく、蜀の滅亡も引き寄せたと思っています。
劉備の失態
しかし関羽の失態は義兄であり、トップである劉備の責任とも言えるでしょう。本来ならば関羽を諫める立場でなければならず、呉との関係を保つように心配をしなければいけません。その点ができていなかったのは劉備、もしくは周囲のミスと言えるでしょう。また劉備も義弟の敵討ちという理由があったとはいえ、大きな戦をやってしまうという失態を犯しています。
力を削がれてしまった国
夷陵の戦いは仕方のない面もあったかもしれませんが、国として大きな失策です。もちろん大敗北をしてしまい国力、そして時代を担うであろう人物たちを多く失ってしまったというのも国として大きなダメージです。しかし何よりも呉との関係が悪くなるということに配慮がなされていません。
それに劉備の皇帝宣言は魏への対抗策であるのに、皇帝になって一番先に呉と戦うというのは最早目的を忘れていると言っても良いのではないでしょうか。
諸葛亮の大きなミス
劉備と関羽の話をしましたが、筆者は諸葛亮もミスを犯していると思います。それは弟子であった馬謖のミスです。そう、街亭の戦いと呼ばれるあの戦いで、馬謖は大きなミスを犯しました。これは馬謖のミスですが、馬謖がこのようなミスをしてしまうことを想定できていなかった諸葛亮のミスであるとも言えるでしょう。
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