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この記事の目次
魏の皇帝
馬謖の話に関連しますが、この時の魏の皇帝は曹叡です。曹叡はまだ20歳頃という若さですが諸葛亮の北伐への対応は素早く、自ら動くという行動力の高さも見せています。
もちろん周囲のサポートあってこそだと思いますが、若さを差し引いてもやはり曹操、曹丕の血筋を良く受け継いだ存在であると思います。この点からも魏が後継者の育成に力を入れていた、時代を見据えていたということが想像できますね。
呉の老衰
ここで呉の話に移りますが、呉は何と言っても晩年の孫権の老衰っぷりが見ていて悲しくなるほどです。若くして父と兄の跡を引き継ぎ、いくつもの困難を乗り越えてきた彼の姿とは思えません。
まるでタガが外れてしまったようになったこのやらかしの数々は、個人的には彼の最大の理解者であっただろう諸葛瑾の亡き後から加速していると思うのですが……またそれは別の話に。その後のゴタゴタも考えると、この先を知っているとはいえ「ああ、呉は滅びてしまうんだな」と思ってしまうのが悲しい所ですね。
滅びる時とは?
振り返ってみると、滅びる時とは滅びるものです。そして滅びる時には様々な要因が絡み合って襲い掛かってきます。それはその瞬間だけでなく、過去の見えなかったような失態たちの積み重ねであるとも言えます。そこを踏まえて考えると魏は後の世まで考えて運営されていたのだな、とも感じます。え、晋?ちょっと今はその話は止めておきましょ!
三国志ライター センのひとりごと
今回は蜀の滅亡の原因、そこから数々の滅びの原因と時を考えてみました。不思議なもので、三国志や三国志演義を何度見ても「ああ、滅びていってしまう」と知っているのに感じる瞬間があります。もちろん先のことは分かっているのですが、それでも感じてしまう悲しさと寂しさ。それもまた三国志の面白さの要因ですね。
参考文献:蜀書先主伝 関羽伝 諸葛亮伝など
魏書明帝紀
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【北伐の真実に迫る】