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この記事の目次
- 1ページ目
- 戦国大名朝倉氏の出自。偉大なる父の待望の嫡男として義景誕生
- 幕府からも期待され「義」の名をもらうも、父に続き大黒柱・宗滴が死去
- 兄弟や子に恵まれぬも越前一国を守る日々
- 13代将軍義輝の死。そして早い段階での情報収集と介入
- 2ページ目
- 義秋を越前に受け入れて、加賀一向一揆との和解を果たす
- 義秋(義昭)の上洛要請に応じられない、義景の影を落とす理由とは
- 織田信長のスピーディな動きで義昭の上洛。義景の自尊心が傷つき信長との戦いに発展
- 最初の信長包囲網も中途半端に和解
- 比叡山を焼き討ちする信長。消極的な義景との違い
- 3ページ目
- 武田信玄の上洛による、2回目の信長包囲網も義景が自ら撤退して瓦解
- 浅井の援軍に向かうも途中で撤退。そこを信長に突かれ壊滅に近い状況に
- 親族にまで裏切られた義景の哀れな最期
- 戦国時代ライターSoyokazeの独り言
義秋を越前に受け入れて、加賀一向一揆との和解を果たす
1566(永禄9)年2月に覚慶は、六角氏の元に身を寄せると還俗し足利義秋を名乗ります。そして正統派の血筋を持つ次期将軍として再び京を目指すべく朝廷から任官を受けたり、周辺の大名の力を借りたりして上洛の機会をうかがっていました。ところが先手をうった三好三人衆のひとり、三好長逸の襲撃を受けて逃亡します。
六角が三好側に着いたのがその理由。義秋は若狭に逃げ武田氏を頼るも、国内が不安定な武田氏にそんな余裕はありません。そこで隣の越前・義景の元に向かうことを決めます。9月に越前に移った義昭に対して義景は歓迎の意を表明し、数少ない親族のひとり景鏡を使者に使わすほどです。
越前入りした義秋は義景に上洛の兵を起こすように依頼します。そして義景のために母を従二位という高位を授けると朝廷に上奏、それを実現させます。また翌1567(永禄10)年には加賀の一向一揆とのやり取りを仲介します。前将軍の弟という立場は強く、和解は成立。義景にすれば朝倉家を長年煩わせた加賀一向一揆との間が和解したことで、背後の憂いが亡くなりいつでも上洛できる体制が整いました。
義秋(義昭)の上洛要請に応じられない、義景の影を落とす理由とは
加賀の一向一揆との和解も成立し、義秋にとってはいよいよ義景とともに上洛をする準備が整いました。ところが義景は一向にその気がなく、義秋を苛立たせます。そして1568(永禄11)年2月になると、三好側が擁立した義栄が14代将軍に。それを知った義秋は正式な元服を行い、名前も縁起が良くないと考えて義昭と改名しました。
義景が積極的に動かなかった理由はいくつかあります。たとえ上洛しても三好三人衆やその後ろに控える松永久秀との激突することへの警戒感がありました。越前は雪国。これまで戦った加賀や若狭の国も同じ雪国なので条件が同じですが、機内は雪が降らず、長期戦となれば、雪で国元に戻れなくなる可能性がありました。そうなると敵に挟み撃ちされるリスクもあります。
またこのとき、不幸にも念願の子・阿君丸が亡くなりました。その時の悲しみは大きく、一説には軍事や政務への意欲を急速に失ったとされます。そんな状況で上洛をする様子の無い義景に義昭は失望。そしてある男の進言により義景を見限ることになり、越前を去ることになります。義景は引き止めますが、義昭はそのまま越前を後にしました。
織田信長のスピーディな動きで義昭の上洛。義景の自尊心が傷つき信長との戦いに発展
美濃の斉藤道三と子の義龍との争いに巻き込まれ、国を追われた明智光秀は、越前の義景の元に身を寄せ、朝倉氏の家臣として働いていました。ところが義昭が義景を見限ることを知った光秀は、織田信長の元に行くことを進言します。
信長は桶狭間で今川義元を破り、その後美濃を平定。それまでの地名・井之口を岐阜と改め「天下布武」を標榜している勢いのある大名です。義昭は光秀とともに織田信長を頼りました。そして信長は9月にすぐに上洛を開始。同盟を結んでいた浅井と共に近江の六角、三好三人衆と義栄を機内より追放。晴れて義昭が15代将軍となります。
信長は将軍の名において周辺大名に上洛を要請。義景は義昭に見限られただけでなく、あっさりと上洛を果たしたこともあり、自尊心が傷つけられてその要請を無視しました。それを知った信長は朝倉への出兵を決意します。ちょうどそのころ義景は若狭武田氏を事実上支配。その支配に抵抗した粟屋勝久らの要請により信長は徳川家康と共に1870(元亀元)年に朝倉攻めを開始します。
金ヶ崎の戦いが始まるのですが、このとき浅井が裏切りました。信長は最大のピンチを迎えますが、これをうまく回避することに成功します。同じ年に再び浅井・朝倉と織田・徳川が姉川で激突。姉川の戦いは織田側が勝利します。一連の戦いにおいて義景は出陣するもののすぐに撤退。ほとんどの戦いを景晃に任せてしまうというやる気の無さを露呈してしまいます。
最初の信長包囲網も中途半端に和解
織田信長の敵は朝倉・浅井の連合軍だけではありません。この頃には大阪に構えていた石山本願寺。寺院とは名ばかりの要塞との戦いも行われています。1590(元亀元)年8月に機内を追われた三好勢と手を組んだ石山本願寺が信長に戦いを挑みます。ところがそのタイミングで浅井朝倉の連合軍も信長に襲い掛かります。この時には義景が自ら出陣。志賀の陣と呼ばれるこの戦いは、近江坂本を侵攻。織田信治と森可成を死に追いやります。
そのまま京に向かおうとする浅井朝倉連合軍ですが、信長の動きは速く、早くも坂本にまで陣をすすめます。すると連合軍は山を登り比叡山に籠城します。信長は比叡山を調略しますが、比叡山はこれを無視。秋まで膠着状態が続き、信長が義景に日時を決めて決戦を申し込むも義景は無視します。最終的に将軍義昭・公卿の二条晴良らが坂本に下向して調停し、この場では講和が成立。義景も信長も軍を引きます。
義景も冬場になり厳しい状況でしたが、信長も後ろに本願寺勢を控えている状況のため、渡りに船でした。これは一回目の信長包囲網。この他にも伊勢長嶋一向宗に織田信興が討たれるなど、信長にとっては厳しい状況が続いていました。冬場が厳しいとはいえ、このあたり義景がもっと積極的に勝負に挑めば、信長にとってはさらに厳しい状況に陥った可能性があります。
比叡山を焼き討ちする信長。消極的な義景との違い
和睦が成立したものの、信長は秀吉に命じて近江と越前の交通の妨害に着手。1571(元亀2)年1月から物資の流通を停滞させ、大きな兵糧攻めを行います。そんな中6月に義景の娘と、一向一揆の本山・本願寺顕如の長男・教如との婚約を行います。長く対立していた一向一揆・本願寺側と朝倉がここで親族関係となり、再び信長包囲網への可能性が高まります。
そして8月には朝倉と浅井の連合軍は、本願寺の一向一揆勢とも組み織田側の横山城・箕浦城への攻撃を開始。しかし信長軍の前に敗退します。さらに信長の恐るべきところはここからでした。9月に伊勢長島の一向一揆に参加した村を焼き払います。その上比叡山にも攻撃の手を伸ばしました。9月に信長軍は、比叡山を焼き打ちにし、朝倉や浅井たちの逃げ場をなくします。
その頃15代将軍義昭は、機内の周辺だけでなく遠くの戦国大名にも信長打倒の書状を送り始めていました。そしてついに甲斐の武田氏が動き出します。その後も北近江で信長軍との小さな戦いが何度かありました。翌1573(元亀3)年7月には浅井の本拠地を信長軍が攻めようとします。浅井は朝倉に救援を求め、義景は小谷城まで来ますが、結局戦う気もなく終わります。
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