前田利家とはどんな人?槍片手にソロバン!知勇情兼備の猛将の生涯


 

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NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも、織田信長(おだのぶなが)の命知らずの小姓として少しだけ登場した前田利家(まえだとしいえ)

長い槍が得意な前田利家

 

長さ6m30センチの派手な鎗を振り回し、槍の又左と呼ばれた利家は、生涯38もの戦に参戦して手柄を立て信長、秀吉に仕え、徳川家康(とくがわいえやす)がその力をはばかった程の大大名に成長しました。勇猛果敢なだけでなく、ソロバンにも明るかった前田利家の生涯とはどんなものだったのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天文7年尾張国海東郡荒子村に生まれる

前田利家

 

前田利家は、幼名を犬千代(いぬちよ)と言い、天文(てんぶん)7年(1539年)の12月25日、尾張国海東郡荒子村(おわりのくにかいとうぐんあらこむら)に土豪荒子前田家の当主である前田利春(まえだとしはる)の4男として生まれます。当初前田氏は織田家筆頭家老の林秀貞(はやしひでさだ)の与力でしたが、天文20年頃に利家は織田信長の小姓になったようです。若き日の利家は短気で喧嘩(けんか)っ早い人であり、派手な服装で周囲の注目を集める傾奇者(かぶきもの)だったようで、それが信長にもウケたのでしょう。

織田信長

 

初陣は天文21年の織田彦五郎(おだひこごろう)との萱津(あしづ)の戦いで、利家は目立つように長さ6m30㎝の大槍を朱色で塗り、敵の首を一つ挙げたそうで、信長は「心臓に毛が生えている」と利家の武勇を賞賛したそうです。

 

さらに元服して、前田又左衛門と名乗りを改めた直後の稲生(いなお)の戦いでは、合戦中に敵の宮井勘兵衛(みやいかんべえ)という男の放った矢を右目の下に受け、味方に退くように(うなが)されても「バカ言うな!まだ手柄首を一つも挙げていない」と叫んで敵陣に飛び込み、自分に矢を当てた宮井勘兵衛の首を獲った上に、目の下の矢を抜く事もなくそのまま首実験にも参加したので、信長が「犬千代はまだ小倅(こせがれ)でも、このような功績を立てた」と全員の前で褒めたたえ、軍の士気を高めています。

 

前田利家の武勇を賞賛する信長

 

このような勇猛果敢(ゆうもうかかん)さと、目立つバカ長い槍のお陰で、利家は槍の又左衛門、略して槍の又左と異名を付けられました。その後も守護代岩倉織田家の織田信賢(おだのぶかた)との浮野(うきの)の戦いにも参加し功績を挙げて赤母衣衆(あかぼろしゅう)の筆頭に抜擢されて多くの与力を付けられた上に百貫を加増され、同年には従妹であるまつ(芳春院(ほうしゅんいん))を正室に迎えました。

 

信長寵愛の茶坊主を斬り捨て出奔

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

しかし、順風満帆の利家に試練が待っていました。それが信長の同胞衆で茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)という男で、信長の寵愛を良い事に信長家臣に対しても横柄に振る舞い、利家に対しても佩刀(はいとう)(こうがい)を盗むという悪事を働きます。利家は激怒しますが信長が仲裁に入ったので、その場は収めました。

 

ところが、それでも拾阿弥の侮辱は改まらないので、とうとう切れた利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺する「笄斬り」という事件を起こし、そのまま織田家を出奔してしまいます。

 

柴田勝家

 

本来、このような振る舞いで厳罰は避けられませんでしたが、柴田勝家(しばたかついえ)森可成(もりよしなり)が拾阿弥の仕打ちの悪質さを説いて利家を擁護(ようご)したので、信長の勘気も多少和らぎ、ようやく出仕停止処分まで罪が軽減されました。

 

信長から信頼されなくなり貧乏になる前田利家

 

ですが、これはつまり、信長から声が掛からない限りクビも同然という事になり、収入が途絶えた利家は妻のまつと娘を抱えて浪人暮らしを経験し経済的に困窮します。利家はこの時の苦労を昔話とし

 

「落ちぶれると、平素親しくしている人間も貧乏神扱いをして近寄って来ない、、だから、このような時に親しくしてくれる人間こそ真の友だ」と繰り返し子孫に語っていたそうです。前田利家には、人情味のある逸話も幾つかありますが、それはこの時、浪人としてひどく苦労をした為に身に付いたのかも知れません。

 

織田信長スペシャル

 

勝手に出陣し手柄を立て信長に許される

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

浪人暮らしの利家は熱田神宮社家松岡家の庇護を受けていましたが、一念発起し信長に無断で桶狭間(おけはざま)の戦いに参加して、合計3つの首を獲ります。しかし信長の態度は冷たく、「ふーんそれで?」というガン無視モードでした。利家の頑張りは骨折り損のくたびれ儲けだったのです。

 

無断参戦して手柄を立てる前田利家

 

並みの武士ならここで諦めるでしょう。でも、ここからが利家!翌永禄4年(1561年)の森部(もりべ)の戦いでも無断参戦、ここで斎藤家の重臣、日比野下野守(ひびのしもつけのかみ)の家来で「首取足立(くびとりあだち)」の異名を持つ、あだちみつる、、じゃない足立六兵衛(あだちろくべい)なる怪力の豪傑を討ち取り、さらに足立以外の首を一つ持って信長の前に出ます。

経済政策が得意な織田信長

 

これには、さすがに信長も心を動かし、信長から300貫が加増されて450貫になり、ようやく帰参を許されます。前田利家の粘り勝ちでした。さて、利家の浪人中に前田家の当主、前田利春は死去。家督は長兄の前田利久(まえだとしひさ)が継いでいましたが、利久は病弱で戦に向かず、実子もいませんでした。永禄12年(1569年)信長は突如、利家に兄に代わり前田家を継ぐように命じます。こうして利家は前田家の家督を継いだのです。

京都御所

 

ところで実子はいない利久ですが、利益という養子はいました。この養子こそ、前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)、あの前田慶次であるのは有名な話ですね。

 

柴田勝家の与力となり北陸で活躍

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

以後の利家は、上洛を果たした信長に付き従い、反織田勢力と激闘を繰り広げる事になります。元亀(げんき)元年(1570年)4月の浅井(あざい)朝倉(あさくら)との金ヶ崎の戦いでは、撤退する信長の警護を担当し、姉川の戦いでは浅井助七郎(あざいすけしちろう)という敵将を討ち取りました。

 

本願寺顕如

 

石山本願寺との春日井堤(かすがいつつみ)の戦いでは、退却する味方の中で一人踏みとどまって敵を倒し、天正年間の一乗谷の戦い、長島一向一揆に参戦。天正3年の長篠の戦いにも佐々成政(さっさなりまさ)野々村正成(ののむらまさなり)福富秀勝(ふくずみひでかつ)塙直政(ばんなおまさ)と共に鉄砲奉行として参戦しています。

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

天正2年、前田利家は柴田勝家の与力として越前一向一揆の鎮圧に従事します。こちらの一揆討伐は凄惨を極め、前田利家は見せしめとして、捕らえた一向宗門徒千人ばかりを磔、釜茹でという残酷な方法で虐殺しました。

炎上する城a(モブ)

 

但し、それはそれだけ一向一揆の抵抗が激烈であり、強い態度で臨まないとキリがないという事情があったためで無駄に残酷であったのではありません。天正3年、越前一向一揆は一時鎮静化し、この際に利家は、佐々成政、不破光治と共に府中10万石を与えられ、府中三人衆と呼ばれるようになり、その後は、勝家の与力として上杉軍と戦っていきます。

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kawauso編集長

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