
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも、織田信長の命知らずの小姓として少しだけ登場した前田利家。
長さ6m30センチの派手な鎗を振り回し、槍の又左と呼ばれた利家は、生涯38もの戦に参戦して手柄を立て信長、秀吉に仕え、徳川家康がその力をはばかった程の大大名に成長しました。勇猛果敢なだけでなく、ソロバンにも明るかった前田利家の生涯とはどんなものだったのでしょうか?
この記事の目次
天文7年尾張国海東郡荒子村に生まれる
前田利家は、幼名を犬千代と言い、天文7年(1539年)の12月25日、尾張国海東郡荒子村に土豪荒子前田家の当主である前田利春の4男として生まれます。当初前田氏は織田家筆頭家老の林秀貞の与力でしたが、天文20年頃に利家は織田信長の小姓になったようです。若き日の利家は短気で喧嘩っ早い人であり、派手な服装で周囲の注目を集める傾奇者だったようで、それが信長にもウケたのでしょう。
初陣は天文21年の織田彦五郎との萱津の戦いで、利家は目立つように長さ6m30㎝の大槍を朱色で塗り、敵の首を一つ挙げたそうで、信長は「心臓に毛が生えている」と利家の武勇を賞賛したそうです。
さらに元服して、前田又左衛門と名乗りを改めた直後の稲生の戦いでは、合戦中に敵の宮井勘兵衛という男の放った矢を右目の下に受け、味方に退くように促されても「バカ言うな!まだ手柄首を一つも挙げていない」と叫んで敵陣に飛び込み、自分に矢を当てた宮井勘兵衛の首を獲った上に、目の下の矢を抜く事もなくそのまま首実験にも参加したので、信長が「犬千代はまだ小倅でも、このような功績を立てた」と全員の前で褒めたたえ、軍の士気を高めています。
このような勇猛果敢さと、目立つバカ長い槍のお陰で、利家は槍の又左衛門、略して槍の又左と異名を付けられました。その後も守護代岩倉織田家の織田信賢との浮野の戦いにも参加し功績を挙げて赤母衣衆の筆頭に抜擢されて多くの与力を付けられた上に百貫を加増され、同年には従妹であるまつ(芳春院)を正室に迎えました。
信長寵愛の茶坊主を斬り捨て出奔
しかし、順風満帆の利家に試練が待っていました。それが信長の同胞衆で茶坊主の拾阿弥という男で、信長の寵愛を良い事に信長家臣に対しても横柄に振る舞い、利家に対しても佩刀の笄を盗むという悪事を働きます。利家は激怒しますが信長が仲裁に入ったので、その場は収めました。
ところが、それでも拾阿弥の侮辱は改まらないので、とうとう切れた利家は許可なしに信長の面前で拾阿弥を斬殺する「笄斬り」という事件を起こし、そのまま織田家を出奔してしまいます。
本来、このような振る舞いで厳罰は避けられませんでしたが、柴田勝家や森可成が拾阿弥の仕打ちの悪質さを説いて利家を擁護したので、信長の勘気も多少和らぎ、ようやく出仕停止処分まで罪が軽減されました。
ですが、これはつまり、信長から声が掛からない限りクビも同然という事になり、収入が途絶えた利家は妻のまつと娘を抱えて浪人暮らしを経験し経済的に困窮します。利家はこの時の苦労を昔話とし
「落ちぶれると、平素親しくしている人間も貧乏神扱いをして近寄って来ない、、だから、このような時に親しくしてくれる人間こそ真の友だ」と繰り返し子孫に語っていたそうです。前田利家には、人情味のある逸話も幾つかありますが、それはこの時、浪人としてひどく苦労をした為に身に付いたのかも知れません。
勝手に出陣し手柄を立て信長に許される
浪人暮らしの利家は熱田神宮社家松岡家の庇護を受けていましたが、一念発起し信長に無断で桶狭間の戦いに参加して、合計3つの首を獲ります。しかし信長の態度は冷たく、「ふーんそれで?」というガン無視モードでした。利家の頑張りは骨折り損のくたびれ儲けだったのです。
並みの武士ならここで諦めるでしょう。でも、ここからが利家!翌永禄4年(1561年)の森部の戦いでも無断参戦、ここで斎藤家の重臣、日比野下野守の家来で「首取足立」の異名を持つ、あだちみつる、、じゃない足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取り、さらに足立以外の首を一つ持って信長の前に出ます。
これには、さすがに信長も心を動かし、信長から300貫が加増されて450貫になり、ようやく帰参を許されます。前田利家の粘り勝ちでした。さて、利家の浪人中に前田家の当主、前田利春は死去。家督は長兄の前田利久が継いでいましたが、利久は病弱で戦に向かず、実子もいませんでした。永禄12年(1569年)信長は突如、利家に兄に代わり前田家を継ぐように命じます。こうして利家は前田家の家督を継いだのです。
ところで実子はいない利久ですが、利益という養子はいました。この養子こそ、前田慶次郎利益、あの前田慶次であるのは有名な話ですね。
柴田勝家の与力となり北陸で活躍
以後の利家は、上洛を果たした信長に付き従い、反織田勢力と激闘を繰り広げる事になります。元亀元年(1570年)4月の浅井・朝倉との金ヶ崎の戦いでは、撤退する信長の警護を担当し、姉川の戦いでは浅井助七郎という敵将を討ち取りました。
石山本願寺との春日井堤の戦いでは、退却する味方の中で一人踏みとどまって敵を倒し、天正年間の一乗谷の戦い、長島一向一揆に参戦。天正3年の長篠の戦いにも佐々成政、野々村正成、福富秀勝、塙直政と共に鉄砲奉行として参戦しています。
天正2年、前田利家は柴田勝家の与力として越前一向一揆の鎮圧に従事します。こちらの一揆討伐は凄惨を極め、前田利家は見せしめとして、捕らえた一向宗門徒千人ばかりを磔、釜茹でという残酷な方法で虐殺しました。
但し、それはそれだけ一向一揆の抵抗が激烈であり、強い態度で臨まないとキリがないという事情があったためで無駄に残酷であったのではありません。天正3年、越前一向一揆は一時鎮静化し、この際に利家は、佐々成政、不破光治と共に府中10万石を与えられ、府中三人衆と呼ばれるようになり、その後は、勝家の与力として上杉軍と戦っていきます。
天正9年前田利家能登を与えられ城持大名へ
天正9年(1581年)利家は信長より能登一国23万石を与えられ七尾城主となります、ここでようやく国持大名へと出世を遂げたわけです。しかし、翌年、利家は難攻不落ながら港湾部の町から離れた七尾城を経済的な理由から廃棄、港を臨む小山を縄張りして小丸山城を築城しました。
この辺り、戦ばかりではなく、ソロバン勘定にも長けた利家の性格が出ています。
命運を分けた賤ヶ岳の戦い
天正10年6月、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれます。その頃、利家は柴田勝家と共に上杉景勝が籠城する越中魚津城を攻略中で動けず、山崎の合戦で明智光秀を討った同僚の羽柴秀吉に大きく差をつけられる事になります。
織田信長亡き後の事実上の天下人を決定する清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、利家は勝家の与力という立場や若い頃の恩義もあり勝家に付きます。
しかし、心情的には秀吉に与していた利家は、天正11年4月の賤ヶ岳の戦いでは、5000の兵を率いて柴田軍に合力しますが、合戦の只中で突如退却を開始し、羽柴秀吉の軍勢に決定的な勝利をもたらします。
その後、利家は越前府中城に籠城しますが、そこに秀吉に敗北して北ノ庄城へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄りこれまでの労をねぎらい湯漬けを所望したというような逸話が賤ヶ岳合戦記にあるようです。
府中城には秀吉の使者の堀秀政が入り降伏を勧告。これに従い利家は降伏し、そのまま北ノ庄攻めの戦法になります。どうも、出来過ぎているので賤ケ岳での無断退却と府中籠城は、あらかじめ秀吉と打ち合わせた芝居かも知れません。
かくして、秀吉が勝家を破ると、利家は能登の本領を安堵され同時に、佐久間盛政の旧領地、加賀国の二郡を与えられ本拠地を能登の小丸城から加賀の金沢城に遷します。
同僚佐々成政を打ち破り北陸警固の地位へ
前田利家が上手く羽柴秀吉に乗り換えたのに対し、若い頃から黒母衣衆として利家と競っていた佐々成政は勝家に付いて苦汁をなめていました。
天正12年、今度は羽柴秀吉と不仲になった織田信雄が徳川家康と組んで小牧・長久手の戦いを起こします。当初成政は秀吉側に与する様子を見せつつも結局織田信雄サイドに付きます。かくして、佐々成政は前田利家の領地である加賀・能登国に攻め込み、末森城を15000で包囲、城兵は1500人で城代が戦死するなど窮地に陥りました。
この知らせを聞いた利家は金沢から2500人の兵を引き連れて急いで戻り、高松村の桜井三郎左衛門の案内により成政軍の守りが手薄な海岸路を通過し、末森城を包囲する成政軍の背後から殺到し佐々成政を撃破します。
以後、戦線が膠着状態になると、利家は北陸方面を守るという名目を利用して一切動きませんでした。翌年からは、利家は、調略で上杉景勝を動かして成政の領地の越中国境まで進出させたり、成政サイドの国衆を寝返らせたり越中に兵を出したりしています。
天正12年8月、秀吉は織田信雄や徳川家康と和睦、孤立無援となった成政の富山城は10万の秀吉軍に包囲され、成政も降伏しました。
これにより秀吉は、利家の嫡子の前田利長に越中国4郡のうちの砺波・射水・婦負を加増、これで前田一族は76万石の大大名へ成長します。さらに、この頃、越前国の国主、丹羽長秀が病没し丹羽家は国替えになり、利家はかつての柴田勝家のような北陸道警固職に就任しました。
小田原攻めで活躍
北陸警固の地位についた利家は秀吉の代理として、北陸の大名の取次に働き、蒲生騒動では徳川家康に代わり奔走し秀吉から処分取り消しを引き出します。
九州征伐では8千の兵で畿内を守備、秀吉が関白に任官して豊臣姓を賜ると、天正14年には利家に羽柴氏を与えて名乗らせ、筑前守左近衛権少将へと任官、天正16年には豊臣姓も賜るなど譜代の家臣がいない秀吉に取り身内のような扱いを受けて、次々と引き立てられていきます。
利家もその期待に応えるように小田原征伐では、北国勢の総指揮を執り、上杉景勝、真田昌幸と上野国に入って、北条氏の北端の要所、松井田城を攻略。
以後も破竹の勢いで城を落として武蔵国に入り、多大な犠牲を払いつつ鉢形城や八王子城を落としていきます。天正18年7月5日に北条氏が降伏した後も、利家は残り伊達政宗や南部信直との外交の取次をしつつ、奥羽の鎮圧に努めました。
朝鮮出兵ではあわや渡海させられる所に・・
日本国内を統一した秀吉は、ありあまる国内のエネルギーを中国大陸に向け、その手始めとして天正19年(1591年)朝鮮出兵の命令を出し前線基地、名護屋城の築城が始まります。
文禄元年(1592年)3月、前田利家は諸将に先んじて京を出発します。当初秀吉は自ら渡海する意思を持っていましたが、利家と家康が熱心に諫めたので取りやめました。
名護屋城まで来て督戦する秀吉ですが、母、大政所危篤の報を受けて、急いで京都に戻ります。そこから3カ月、名護屋城で諸将を指揮したのは利家と家康でした。さらに、思わしくない戦線に対し利家にも出陣命令が下り、実際に準備と陣立てが行われますが、間もなく明との間で講和の気運が起こり渡海は沙汰やみになります。
危ない所でしたね、すでに50を過ぎている利家が渡海したら、手柄うんぬんの前に日本に戻ってこれたかどうか・・
文禄3年(1594年)1月5日、利家は上杉景勝、毛利輝元と同日に従三位に叙位を受け、さらに2人に先立ち、権中納言に任じられます。文禄4年には、越中に残る荒川郡が利長に加増。重臣の青山吉次が、上杉家の越中衆から天神城や宮崎城を受け取り、前田家の版図は加賀、能登、越中にまたがり83万石にまで膨れあがります。
五大老と秀頼の傅役を仰せつかる
慶長3年(1598年)になると、秀吉に明らかに老衰の兆候が見えだします。しかし、これは利家も同じで4月20日に嫡子の利長に家督を譲り隠居、湯治の為に草津に赴きます。しかし、隠居料として15000石を受けたものの実質隠居は許されず、草津より戻ると五大老・五奉行の制度を定めた秀吉により家康と同格の大老上首の地位を与えられました。
これは、もう死が近い秀吉が、家康から秀頼を守ってくれという利家へのメッセージでしょう。そして8月18日、秀吉は秀頼の将来を案じつつ62歳で亡くなります。
これで休めなくなった利家は、慶長4年の元旦、病を推して幼い秀頼の傅役として秀頼を抱いて、諸大名の前に立ちました。かくして、利家は秀頼を守る大坂城の事実上の主となります。
家康の台頭を危惧しつつ病死
しかし、大阪城で忠義を尽くす利家とは対照的に伏見城の家康は、すぐに伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則と無断で婚姻政策を勧めます。これに対し利家は猛反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎになります。
前田利家は武断派にも文知派にも人望があり、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の三大老、五奉行の石田三成、武断派の細川忠興、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明が味方し、一触即発になりますが、結局、2月2日に利家を含む四大老、五奉行の9人と家康が誓紙を交換し、さらに利家が家康の下を訪問しました。
家康は、今は利家と対立するのは不利と悟り、向島へ退去する事で和解しました。ところが、この直後、利家の病状が悪化、家康が逆に病気見舞いに訪れる事になりますが、結局、回復せずに大坂の自邸で病死しました。前田利家の死去は大きく、多くの大名は人望と実力でトップに立った徳川家康に靡いていき、豊臣の天下は急速に崩壊していく事になります。
ケチだった前田利家、その真意は?
前田利家は愛妻のまつにさえ、ケチと呼ばれる程の倹約家で前田家の決済はすべて自らが愛用のソロバンでやる程に経済に明るい人物でした。しかし守銭奴ではなく、北条家の滅亡後に、金に困り家臣を養えない各地の大名家に大金を貸して救っています。
しかも、遺言では、こちらから借金の催促はしないように、返せないやつの借金は無かった事にしてやれと温情を掛ける言葉を残しています。どうも、それもこれも、信長の茶坊主を斬り、経済的な困窮を味わった教訓であるようで、金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだと常々口にしていたそうです。
現在でも金がないのは首がないのと同じと言いますが、貧しさが産み出す底知れない恐怖を利家は浪人生活で味わい、もう生涯貧乏はするまいと決意し経済感覚を磨いたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
歴史上には、勇猛な武将というのは沢山いますし智謀湧くが如くの知将もいます。しかし、この2つがバランスよく一人の人間の中に存在しているという武将は少ないです。
前田利家は、この2つが上手くバランスし、さらに浪人時代の苦労もあり人情の機微も分る名将になったような気がします。
特に、短気を抑えられずに拾阿弥を斬って、信長に見捨てられ貧困生活を送ったのは利家に、最大限自重して最善を選ぶという教訓を与えてくれたように思います。もし、ずっと順風満帆だったら佐々成政のように、ここ一番で面子やプライドに拘り、全ての苦労が水の泡になったかも知れませんね。
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