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この記事の目次
- 1ページ目
- 戦国大名朝倉氏の出自。偉大なる父の待望の嫡男として義景誕生
- 幕府からも期待され「義」の名をもらうも、父に続き大黒柱・宗滴が死去
- 兄弟や子に恵まれぬも越前一国を守る日々
- 13代将軍義輝の死。そして早い段階での情報収集と介入
- 2ページ目
- 義秋を越前に受け入れて、加賀一向一揆との和解を果たす
- 義秋(義昭)の上洛要請に応じられない、義景の影を落とす理由とは
- 織田信長のスピーディな動きで義昭の上洛。義景の自尊心が傷つき信長との戦いに発展
- 最初の信長包囲網も中途半端に和解
- 比叡山を焼き討ちする信長。消極的な義景との違い
- 3ページ目
- 武田信玄の上洛による、2回目の信長包囲網も義景が自ら撤退して瓦解
- 浅井の援軍に向かうも途中で撤退。そこを信長に突かれ壊滅に近い状況に
- 親族にまで裏切られた義景の哀れな最期
- 戦国時代ライターSoyokazeの独り言
武田信玄の上洛による、2回目の信長包囲網も義景が自ら撤退して瓦解
義景が煮え切らない優柔不断な態度を取りつづけるために、配下の家臣の中で織田方に寝返るものが現れだしました。前波吉継や富田長繁らがそのような行動に出ますが、義景は何もしません。そんな中、信長にとっては最強クラスの敵が迫っていることを知ります。
それは武田信玄。当時最強と言われた騎馬隊を率いる軍団は、当時、甲斐、信濃、駿河、さらに遠江と上野一部や東美濃まで勢力下におさめていた大大名。その信玄が将軍義昭の命に応じてついに上洛作戦を開始します。1572(元亀3)年12月に信玄は三方が原で徳川家康相手に圧倒的な力を見せつけて撃退。さすがの信長も警戒します。その上朝倉と浅井が北側に、西の方には本願寺の勢力も健在。ここで2回目の信長包囲網が形成されつつあります。
このまま信玄が信長と直接ぶつかればどういう結果になったかわからない矢先。義景は思わぬ行動に出てしまいます。直前に岐阜の虎御前山砦を守る秀吉隊に敗れたからかもしれませんが、12月に雪を理由に撤退します。結局義景の撤退により包囲網は瓦解しました。これに信玄が激怒したことがうかがえ、翌1573(元亀4)年2月に信玄が義景に出陣を求めるもそれに応じません。失意のためか信玄はこの2か月後の4月に病死してしまいます。
浅井の援軍に向かうも途中で撤退。そこを信長に突かれ壊滅に近い状況に
信玄の死は3年間伏されましたが、武田軍は甲斐に引き返し、しばらく動きません。また本願寺とも一時的に和睦。信長包囲網の黒幕ともいえる将軍足利義昭はついに京都を追放され、室町幕府は終了します。
信長は元号を天正とあらため1573(天正元)年に信長は朝倉と浅井を潰しに行くことを決め実行に移します。7月に信長は浅井の攻撃を開始。浅井は朝倉を頼り援軍を頼まれ義景は重い腰を上げますが、この頃には朝倉家家臣団も一枚岩ではありません。従妹の朝倉景鏡も「兵が疲弊している」という理由で出陣を断ります。それでも2万の軍勢で出陣。8月になると信長は朝倉に攻撃を開始します。義景は撤退しますが信長はその行動も理解しており、後から追撃。追いつかれ全滅に近い状況になります。
この中にはかつて美濃の大名で、信長に滅ぼされた斎藤龍興もいました。一説には生き残りが10数人とも。義景はかろうじて生き残り、自害も考えます。しかし鳥居景近や高橋景業といった近臣に思いとどめられました。さらに出陣しなかった景鏡により東雲寺に逃れることを提案され、それに従います。そして8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請しました。しかしそれまでも優柔腐乱で好機を逃し、そして今回大軍を失った義景は予想以上に周りから見捨てられていたのです。
親族にまで裏切られた義景の哀れな最期
力の強いものにつかないと自らの身が危うい戦国の世。それまで大名として君臨していた朝倉義景にはもうその力は残っていません。平泉寺はすでに信長側に寝返っていました。そのため東雲寺が逆に攻撃されます。8月19日の夕刻、義景は今度賢松寺に逃げるよう、景鏡からの進言を受けます。すでに前日の18日には織田方の柴田勝家が一乗谷を攻撃、町は焼き払われていまました。
そして20日早朝。それまで義景に従っていたと思われていた従妹の景鏡もすでに織田方に寝返っていました。そして200の手勢で賢松寺を攻撃。こうして義景は自害して果て、越前朝倉家は滅亡しました。それから10日余りの9月1日には浅井氏も滅亡。ここに信長包囲網の一角を築いた浅井・朝倉は消滅します。
ちなみに最後に裏切った朝倉景鏡は、義景の首や家族を信長に差出し信長の家臣となります。彼が支配していた越前の大野郡はそのまま安堵。名前も土橋信鏡と変えて信長に従います。しかし翌年1574(天正2)年、越前一向一揆の前に平泉寺にて戦死。残された息子も処刑され、朝倉の血脈は途絶えました。ちなみに信長は本能寺の変で亡くなりますが、足利義昭は1597(慶長2)年の秀吉の時代まで生き残りました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
朝倉義景は、肝心なところで煮え切らない、判断力が無い、優柔腐乱な大名のため最後に家臣にも裏切られました。しかし越前の国を治め、隣国の若狭の国に介入して支配したところから、江戸時代のような平時の大名や京都から遠い大名ならここまで悪印象は無いように思います。足利将軍家から「義」の名前をもらい義昭への期待高いものの、本当は越前を治めるだけで十分と思っていたのかもしれません。信長という天才が身近にいたのも残念な結果に終わりました。
参考文献
水藤真『朝倉義景』人物叢書・吉川弘文館
桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』講談社
天野忠幸『三好一族と織田信長』戒光祥出版
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