広告

朝倉義景の信長包囲網はなぜ失敗したのか?


はじめての三国志_ページネーション

こちらは3ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。

信長包囲網はなぜ失敗(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



武田信玄の上洛による、2回目の信長包囲網も義景が自ら撤退して瓦解

 

義景が煮え切らない優柔不断な態度を取りつづけるために、配下の家臣の中で織田方に寝返るものが現れだしました。前波吉継(まえば よしつぐ
)
富田長繁(とだ ながしげ)らがそのような行動に出ますが、義景は何もしません。そんな中、信長にとっては最強クラスの敵が迫っていることを知ります。

 

武田信玄が攻めてきてビビる織田信長

 

それは武田信玄。当時最強と言われた騎馬隊を率いる軍団は、当時、甲斐、信濃、駿河、さらに遠江と上野一部や東美濃まで勢力下におさめていた大大名。その信玄が将軍義昭の命に応じてついに上洛作戦を開始します。1572(元亀3)年12月に信玄は三方が原で徳川家康相手に圧倒的な力を見せつけて撃退。さすがの信長も警戒します。その上朝倉と浅井が北側に、西の方には本願寺の勢力も健在。ここで2回目の信長包囲網が形成されつつあります。

 

武田信玄と戦をする織田信長

 

このまま信玄が信長と直接ぶつかればどういう結果になったかわからない矢先。義景は思わぬ行動に出てしまいます。直前に岐阜の虎御前山砦を守る秀吉隊に敗れたからかもしれませんが、12月に雪を理由に撤退します。結局義景の撤退により包囲網は瓦解しました。これに信玄が激怒したことがうかがえ、翌1573(元亀4)年2月に信玄が義景に出陣を求めるもそれに応じません。失意のためか信玄はこの2か月後の4月に病死してしまいます。

 

浅井の援軍に向かうも途中で撤退。そこを信長に突かれ壊滅に近い状況に

武田信玄死去

 

信玄の死は3年間伏されましたが、武田軍は甲斐に引き返し、しばらく動きません。また本願寺とも一時的に和睦。信長包囲網の黒幕ともいえる将軍足利義昭はついに京都を追放され、室町幕府は終了します。

 

織田信長

 

信長は元号を天正とあらため1573(天正元)年に信長は朝倉と浅井を潰しに行くことを決め実行に移します。7月に信長は浅井の攻撃を開始。浅井は朝倉を頼り援軍を頼まれ義景は重い腰を上げますが、この頃には朝倉家家臣団も一枚岩ではありません。従妹の朝倉景鏡(あさくら かげあきら
)
も「兵が疲弊している」という理由で出陣を断ります。それでも2万の軍勢で出陣。8月になると信長は朝倉に攻撃を開始します。義景は撤退しますが信長はその行動も理解しており、後から追撃。追いつかれ全滅に近い状況になります。

 

斎藤龍興

 

この中にはかつて美濃の大名で、信長に滅ぼされた斎藤龍興(さいとう たつおき
)
もいました。一説には生き残りが10数人とも。義景はかろうじて生き残り、自害も考えます。しかし鳥居景近(とりい かげちか
)
高橋景業(たかはし かげあきら
)
といった近臣に思いとどめられました。さらに出陣しなかった景鏡により東雲寺とううんじ)に逃れることを提案され、それに従います。そして8月17日には平泉寺の僧兵に援軍を要請しました。しかしそれまでも優柔腐乱で好機を逃し、そして今回大軍を失った義景は予想以上に周りから見捨てられていたのです。

 

親族にまで裏切られた義景の哀れな最期

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

力の強いものにつかないと自らの身が危うい戦国の世。それまで大名として君臨していた朝倉義景にはもうその力は残っていません。平泉寺はすでに信長側に寝返っていました。そのため東雲寺が逆に攻撃されます。8月19日の夕刻、義景は今度賢松寺に逃げるよう、景鏡からの進言を受けます。すでに前日の18日には織田方の柴田勝家(しばた かついえ
)
が一乗谷を攻撃、町は焼き払われていまました。

 

資金が豊富な織田信長

 

そして20日早朝。それまで義景に従っていたと思われていた従妹の景鏡もすでに織田方に寝返っていました。そして200の手勢で賢松寺を攻撃。こうして義景は自害して果て、越前朝倉家は滅亡しました。それから10日余りの9月1日には浅井氏も滅亡。ここに信長包囲網の一角を築いた浅井・朝倉は消滅します。

敵将の頭蓋骨を盃がわりにして酒を飲む織田信長

 

ちなみに最後に裏切った朝倉景鏡は、義景の首や家族を信長に差出し信長の家臣となります。彼が支配していた越前の大野郡はそのまま安堵。名前も土橋信鏡と変えて信長に従います。しかし翌年1574(天正2)年、越前一向一揆の前に平泉寺にて戦死。残された息子も処刑され、朝倉の血脈は途絶えました。ちなみに信長は本能寺の変で亡くなりますが、足利義昭は1597(慶長2)年の秀吉の時代まで生き残りました。

 

戦国時代ライターSoyokazeの独り言

soyokaze(ライター)

 

朝倉義景は、肝心なところで煮え切らない、判断力が無い、優柔腐乱な大名のため最後に家臣にも裏切られました。しかし越前の国を治め、隣国の若狭の国に介入して支配したところから、江戸時代のような平時の大名や京都から遠い大名ならここまで悪印象は無いように思います。足利将軍家から「義」の名前をもらい義昭への期待高いものの、本当は越前を治めるだけで十分と思っていたのかもしれません。信長という天才が身近にいたのも残念な結果に終わりました。

 

参考文献

水藤真『朝倉義景』人物叢書・吉川弘文館
桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』講談社
天野忠幸『三好一族と織田信長』戒光祥出版

 

関連記事:【センゴク】織田信長の宿敵・朝倉義景はどうやって撃破されたの?

関連記事:松永久秀こそが先に「天下人」と呼ばれていた?温存していた「秘密兵器」を展開する前に倒れた「信長のライバル」久秀の実像に迫る

 

はじめての戦国時代

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
Soyokaze

Soyokaze

ライター自己紹介: 旧石器から現代史、日本、中国、西洋とどの歴史にも興味があります。 小学生のころから歴史に興味があり、歴史上の偉人伝を呼んだり、 NHKの大河ドラマを見たりして歴史に興味を持ちます。 日本のあらゆる歴史に興味を持ち、旧石器や縄文・神話の時代から戦後の日本までどの時代も対応可能。 また中国の通史を一通り読み西洋や東南アジア、南米に至るまで世界の歴史に興味があります。 最近は、行く機会の多いもののまだあまり知られていない東南アジア諸国の歴史にはまっています。 好きな歴史人物: 蘇我入鹿、明智光秀、石田三成、柳沢吉保、田沼意次(一般的に悪役になっている人たち)、溥儀、陳国峻(ベトナムの将軍)、タークシン(タイの大王) 何か一言: 勝者が歴史を書くので、歴史上悪役とされた敗者・人物は本当は悪者では無いと言ったところに興味を持っています。

-戦国時代 (日本)
-