ジャンヌ・ダルクは15世紀フランス王国の女性軍人です。
当時英仏間で行われた百年戦争で、圧倒的な劣勢にあったフランスに彗星の如く出現しフランスを救えという神の啓示を受けたとして、甲冑を身に着けて馬に乗りイングランド軍に連戦連勝。シャルル7世の戴冠式を実現させてフランスを亡国の危機から救いました。
しかし、その後敗戦によりイングランドに囚われ、政治的な理由により火刑に処せられ殉教します。そんなジャンヌの最期とは、どんなものだったのでしょうか?
この記事の目次
英仏百年戦争とは?
ジャンヌダルクが身を投じる事になる百年戦争とは、1339年から1453年まで継続した英仏の王家同士の王位継承戦争です。その発端は、西暦1328年フランスでカペー朝が断絶し最後の国王シャルル4世の従兄弟、バロア侯がバロア朝を興しフィリップ6世として即位する所から始まります。
これに対し母親がカペー朝の出身であるイングランドのエドワード3世が自分にも王位継承権があると主張してフランスの王位継承に介入しました。でも、どうしてイングランドがフランスの王位継承に口を挟むのか不思議ですよね?
実はイングランドは、フランスのノルマン公ウィリアム1世による征服王朝でした。なのでエドワード3世は、イングランド王であると同時にフランスにも領地を持ち、フランス領内ではフランス王に封臣として仕えているというややこしい状態でした。
逆に、フランス王のフィリップ6世から見れば、大陸内にあるイングランド領が邪魔で仕方ありません。そこで、ヘンリー3世の臣従の手続きに不備があると難癖をつけイングランド領ガスコーニュ地方を没収したのです。
ここには、毛織物の一大産地であるフランドル地方を英仏のどこが支配するかという経済戦争も付随していました。
これにエドワード3世が激怒し、だったら悪いけど、本来カペー朝の血筋を受けている俺にもフランス王の資格があるので軍事介入するぞ!で両国は交戦状態に入るのです。
しかし、戦争はイングランドのエドワード黒太子の活躍でイングランドが連戦連勝、一時はフランスが勢いを盛り返すものの、1413年からは、フランス王シャルル7世が、内輪もめで即位も出来ぬ状態が続きフランスが亡国寸前の状態に陥っていました。
ジャンヌダルクの活躍のあらまし
ジャンヌダルクは1412年頃にフランス東部ドン・レミという村に5人兄弟の4番目として生まれました。12歳の頃にジャンヌは、「イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをノートルダム大聖堂のあるランスに連れて行き王位に就かしめよ」という神の声を聴きます。
その後も度重なる神の啓示に、ジャンヌは一大決心をし16歳の頃に親類に頼み込んでヴォークルールへ出向き守備隊長のルネ・ダンジューの顧問官ボードリクール伯爵にシノンの仮王宮を訪れる許可を願います。シノンの仮王宮には王太子シャルル7世がいたからです。
当初、ジャンヌの神の啓示を嘲笑ったボードリクール伯はジャンヌを門前払いしますが、諦めないジャンヌは、さらに会見の機会を得て、ボードリクール伯に、ニシンの戦いでフランス軍が敗北すると予言します。
これが的中し、ボードリクール伯はジャンヌを信じてみる気になり、ジャンヌを男装させた上でシノンの仮王宮でシャルル7世と会見させます。シャルル7世はジャンルダルクの態度に信憑性と運命的なモノを感じ、その言い分を信じて、甲冑や馬や剣や旗印を寄付で賄い与えオルレアンへと進撃させます。
その頃、イングランド軍が包囲していたオルレアンでは、オルレアン公シャルルがイングランドの捕虜となり、異母弟のジャン・ド・デュノワが代わりにイングランド攻略軍を率いていました。
1429年4月29日、ジャンヌダルクの部隊は、オルレアンに到着します。しかし、デュノワは当初、神の啓示を受けて来たというジャンヌダルクを胡散臭く思い、作戦会議にも参加させず、戦闘の日時も教えませんでした。しかし、ジャンヌは構う事なく会議に参加、戦いにも参戦するようになります。
負け犬根性がついて、援軍が来ない限りは防戦しかしないと言うデュノワに対し、ジャンヌダルクは積極攻勢を主張して激しく対立。デュノワの制止を振り切り、市民とフランス軍将兵に直接に呼び掛け、イングランド軍主力の拠点の「レ・トゥレル」を攻撃。激戦の途中に首に矢を受けて負傷したジャンヌですが、傷は浅く、すぐに前線に復帰しました。
致命傷になりやすい首の傷から生還したジャンヌダルクを、フランス兵は神が遣わした聖女と本気で信じはじめ、尽きかけていた士気が復活していきます。オルレアンの大勝利で勢いづいたジャンヌダルクは、シャルル7世を説き伏せ、自身をアラソン公ジャン2世の副官の地位に就ける事とランスを解放し、ノートルダム寺院でシャルルの戴冠式を挙げる作戦を許すという勅命を得ます。
ここからもジャンヌの快進撃は続き、イングランド軍やイングランドに与したブルゴーニュ軍を降したジャンヌダルクは、ロワール、ジョルジョー、オセール、トロワという主要な都市を攻め落としたり無血開城させて進軍。
7月16日にはランスはフランス軍に城門を開き、翌17日シャルル7世はノートルダム大聖堂で戴冠式を行い正式なフランス王になります。従軍から3カ月足らずでジャンヌが起こした奇跡でした。
ジャンヌの死後も22年間英仏戦争は続きますが、シャルル7世の戴冠の影響は大きく、結局イングランドはカレー以外の全ての大陸の領地を失い和睦するのです。
ブルゴーニュ大公軍に囚われイングランドに売られる
その後、ジャンヌ率いるフランス軍はパリ解放に向かいますが、戦争は膠着、シャルル7世はギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意見を取り入れてイングランドと和睦します。
もう少しシャルル7世が粘っていたら百年戦争は80年戦争くらいで終ったかも知れませんが、この和睦で戦いは長引く事になります。ともあれ、ジャンヌダルクとその家族は戦いの功績で貴族へと昇進しました。
しかし、フランスとイングランドの休戦協定は間もなく失効。ジャンヌは、コンピエーニュ包囲軍の援軍としてコンピエーニュへ向かう途中、マルニーに陣取るブルゴーニュ公国軍を攻撃し、敵の矢を受けて落馬、ブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜になってしまうのです。ジャンヌは途中、何度も脱走を試み、時には21mの高さの塔から掘に飛び降りてまで逃げようとしますが、すべて捕まり果たせませんでした。
当時の慣例で、捕虜は莫大な身代金と引き換えに釈放されるものでしたが、シャルル7世は大金を用意できなかったのか政治的な思惑か、ジャン2世に身代金を支払おうとはしませんでした。こうしてジャンヌは最悪な事に、ジャン2世により身代金を支払ったイングランドへと引き渡されてしまうのです。
ジャンヌダルク火あぶりになる
ジャンヌはイングランドで異端審問に掛けられますが、裁判は最初から結論ありきでした。ジャンヌダルクに身代金を支払ったベッドフォード公は甥のイングランド王ヘンリー6世の代理としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた人物。
それが、シャルル7世の戴冠に手を貸したジャンヌを裁くのですから最初からリンチ裁判であり、ただの見せしめショーでした。ジャンヌには異端を示す証拠は物的証拠も法的証拠もなく、調書では罪がでっち上げられ、陪審員は全て親イングランドの関係者ばかりで、ジャンヌには弁護士をつける権利さえ認められませんでした。
さらに劣悪な事にイングランドは文盲のジャンヌに宣誓供述書と騙して死刑宣告書にサインをさせていました。
イングランドの悪辣な報復はこれだけではすみませんでした。通常、異端を認めた者は、再び異端の罪を犯さない限りは、火刑に処せられない決まりでした。
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