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この記事の目次
蜀滅亡の戦犯は誰か?
さて何人か蜀滅亡の戦犯として名前を挙げさせて頂きました。個人的な考えかもしれませんが国が一つ滅びるまでには、様々な要因があると思います。例えば漢王室は献帝の代で終わってしまったと言えますが、全てが献帝の責任とは言えないでしょう。
そこに至るまで様々な人物がいて、様々な要因が絡み合って、一つの時代が滅びるのです。なので、ただ一人を戦犯と挙げるのではなく、幾人かの人物を今回は挙げさせて頂きました。
番外:曹操・・・?
ちょっと気分を変えるために番外として、曹操の名前も少し挙げさせて貰いましょう。何せ曹操は優秀過ぎました。強大な魏を築いてしまったがために蜀という国、呉という国が段々と打つ手が無くなってしまっていく……そう思うとある意味で曹操も蜀滅亡の要因の一つではないでしょうか?
敵が強大すぎたというのもまた蜀が滅亡を避けられなくなってしまった理由の一つかもしれませんね。
戦犯という言葉の難しさ
戦犯という言葉は難しいですね。例えば関羽が悪かったとしてもその態度を諫めなかった劉備の責任もあるのでは?とも思います。それを考えれば黄晧を諸葛亮は取り除いておけなかったのか?
とも思うし、皇帝となった以上、劉禅の責任もないとは言い切れないでしょう。なので、今回はあくまで一例としてお考え下さい。そしてこの人物たち以外にも大なり小なり要因があって絡み合っていたと思うと、蜀滅亡は避けられない運命だったのでしょう。
三国志ライター センのひとりごと
今回は蜀滅亡と戦犯に付いて、少し触れさせて頂きました。その中で分かったのは全てが一人の責任、一つの要因は決まらないということです。それこそが歴史の醍醐味であり、面白さだと再確認できました。数多くの人間たちが織り成す一枚の錦、それが三国志なのかもしれませんね。
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【北伐の真実に迫る】