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この記事の目次
徳川家康が子孫に残した掟
将軍は海路から逃げると言うのは、特に突拍子もない話ではありません。徳川家康は徳川家の男子たちに掟として、乗馬と水泳だけは一生懸命やるようにと言っていました。
「総大将は、ほとんどの事を部下がやってくれるが、唯一つ逃げる事だけは他人が代わってはくれないから、乗馬と水泳だけは鍛錬を怠るな」というのが家康の子孫への教訓だったのです。
考えてみると、家康は三方ヶ原、伊賀越え、そして大阪夏の陣では真田信繁に追い立てられたとも言われていて、首尾よく逃げる事で天下を獲った人ですから、子孫にも無事に逃げのびる事の重要さを力説したのかも知れませんね。
事実、徳川家の男子は家康の孫までは、水泳の達人が多く、徳川光圀は墨田川を泳いで軽々と往復し、尾張徳川家の光友は、八丁堀に飛び込んで立ち泳ぎしながら弁当を食べてみせたそうです。
東照大権現の再来のあの人も
そう言えば、徳川最期の将軍、徳川慶喜も東照大権現の再来と将来を嘱望されていました。
しかし、西郷隆盛の挑発に乗り、江戸から大坂に出陣、鳥羽伏見の戦いを起こした末に敗戦し、部下には徹底抗戦を呼びかけておきながら、自分は陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、松平容保、松平定敬らと共に開陽丸で江戸に逃げてしまいました。
この自分だけ逃げてしまう慶喜の決断は、徳川家の士気を大いに下げてしまうのですが、考えてみると、大坂と江戸の違いはあれど、なによりも総大将は逃げて命を守るのが肝要とした徳川家康の遺伝子を慶喜も受け継いでいるような気がします。
だって、朝敵の汚名は着たものの徳川家は滅ぼされる事なく、現在まで残っているんですからね。
江戸時代ライターkawausoの独り言
今回は江戸城の弱点について、色々と書いてみました。江戸城落城後の将軍の動向については、将軍は半蔵門から伊賀忍者に守られて逃れ、次に八王子の千人同心と合流して、甲府城に向かい甲斐の山々を拠点に時間を稼ぎ、徳川恩顧の軍勢が集結するのを待つみたいな計画もあったそうです。なんにしても、幕府を開いてからも家康が万が一の事まで考えていた事が分かりますね。
参考文献:歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ 中公新書
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