楊彪とは誰?陳寿の正史『三国志』より解説!董卓残党から献帝を救った学者


はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

李カク(李傕)、郭汜、王允

 

初平しょへい)3年(192年)に董卓(とうたく
)
は養子の呂布(りょふ
)
王允(おういん
)
の手により殺害されました。董卓暗殺の報告を聞いた残党の李傕(りかく)郭汜(かくし)は、敵討ちのために長安(ちょうあん
)
に突入。王允を殺害して、呂布を追い出しました。しかし間もなく、残党内部で内ゲバが勃発。長安は戦場となります。

 

楊彪(ようひょう)

 

興平(こうへい)2年(195年)に長安にいることが嫌になった献帝(けんてい)は脱出して洛陽(らくよう)を目指します。この時に同行をしていた人物に宰相の楊彪(ようひょう
)
がいました。今回は正史『三国志』をもとに楊彪について解説します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく解説しています。


四世三公 弘農楊氏

ブチギレる項羽

 

楊彪は弘農郡華陰県(こうのうぐんかいんけん)の出身です。先祖は項羽(こうう)討伐で功績を挙げた楊喜(ようき)と言われていますが、これに関しては疑問視する声が多いので、おそらく家に箔を付けるためのウソと考えられます。実際に史料で確認がとれる弘農楊氏(こうのうようし)の開祖は後漢(ごかん)(25年~220年)初期の楊震(ようしん)と言われています。楊震は40代になっても政治家として世に出ることはせずに、学問をしながら生計を立てていました。

 

そして50代になりようやく学識が認められて政界進出を果たします。要するに遅咲きの人物でした。その後、弘農楊氏からは4代に渡り三公(さんこう
)
を輩出します。三公とは3つの宰相職であり、太尉(たいい
)
司徒(しと
)
司空(しくう
)
をまとめたものです。楊氏が就任していたのは太尉でした。上記のことから弘農楊氏は「四世三公(しせいさんこう)」と呼ばれました。ちなみに袁紹・袁術の家である汝南袁氏(じょなんえんし)も四世三公です。つまり、楊彪と袁紹・袁術は家柄では同格なのです


董卓政権に仕える

宦官を倒す袁紹

 

中平(ちゅうへい)6年(189年)に大将軍の何進(かしん)宦官(かんがん
)
の手により殺害されます。怒った袁紹と袁術は宦官を皆殺しにしました。この非常事態は何進が呼び寄せた董卓が政権を握ったことにより終息を迎えます。ところが、袁紹は董卓に仕えたくないことから洛陽を出ていきます。

 

橋瑁が決起文を送り反董卓連合軍結成

 

やがて袁紹は初平元年(190年)に曹操と一緒に打倒董卓を目指して洛陽を攻撃開始。一方楊彪は董卓政権で三公の1つである司徒として仕えていました。もちろん本意ではなく無理やりでした。


長安遷都に反対

呉の孫堅

 

董卓討伐軍の勢いは凄く董卓軍の華雄(かゆう)孫堅(そんけん)に討たれてしまいました。迫ってくる討伐軍の前に董卓は長安遷都を決定します。長安方面は『キングダム』の政が治めていた土地ですし、前漢(ぜんかん)(前202年~後8年)の首都ですから縁起が良い。また、長安方面には馬騰(ばとう)韓遂(かんすい)がいるので彼らの強力があれば城を建設する材料が提供されるからでした。

 

楊彪を司空に任命させる董卓

 

しかし楊彪は「長安が首都だったのは、かなり昔の話です。首都としての機能はしていません」と反対します。怒った董卓は楊彪の役職である司徒を解任しました。普通ならば楊彪は袁紹と同じように出て行ってもおかしくないのですが、それをしないで一族を引き連れて献帝と一緒に長安まで同行しました。董卓も楊彪を殺すことはせずに長安遷都後は再び、三公の1つである太尉に登用しています。どうやら董卓も彼の実力は認めていたようです。


長安脱出と弘農楊氏の死闘

王允

 

初平3年(192年)に董卓は王允と呂布の手により殺害されました。だが、董卓軍の残党である李傕・郭汜により返り討ちにあって王允は処刑。呂布は逃亡します。終わったら董卓軍の残党は血みどろの内ゲバを始めます。嫌気がさした献帝は興平(こうへい)2年(195年)に長安を脱出して洛陽を目指します。

李カク(李傕)、献帝

 

怒った李傕は献帝を連れ戻そうとします。『後漢書(ごかんじょ
)
』によると鍾繇と楊彪の一族である楊奇が李傕軍で反乱を起こさせて打撃を与えました。反乱を鎮圧すると李傕は、しつこく追撃。楊彪の故郷である弘農郡(こうのうぐん
)
で死闘が展開されて、朝廷の多くの人馬(じんば)が失われました。この時に楊彪の一族である楊衆が奮戦して献帝を護衛します。

献帝を保護する曹操

 

建安(けんあん)元年(196年)に曹操(そうそう)献帝(けんてい)を保護した際に楊奇の子の楊亮(ようりょう)楊衆(ようしゅう)には莫大な恩賞(おんしょう
)
が下されました。どうやら楊奇はこの時点で亡くなっていたようです。病死か戦死なのか不明です。

【次のページに続きます】

次のページへ >

1

2>

関連記事

  1. 漢兵士を辞めて学問に目覚めた崔琰(サイエン)
  2. 馬に乗って単身荊州へ赴く劉表
  3. 歴代皇帝の墓を暴こうとする韓遂の兵士
  4. 袁術
  5. 種子島を目指す衛温

コメント

  • コメント (0)

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。




はじめての三国志企画集

“はじめての三国志企画特集"

3冊同時発売

“三国志人物事典"

“ながら三国志音声コンテンツ"

ASMR

“近代オリンピック




PAGE TOP