劉備軍のパトロンは簡雍だった?現実的に考えたらこれが真相?


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

劉備(りゅうび)の挙兵当時の部下といえば関羽(かんう)張飛(ちょうひ)は説明不要なレベル。しかし劉備の挙兵当時の部下はもう1人いました。

 

簡雍

 

その名は簡雍(かん よう
)
。彼に関しては以前、記事にしたことがありましたので覚えている読者の皆様もいるとおもいます。実は彼は、後漢(25年~220年)建国の功臣の子孫に当たります。今回は簡雍と簡雍の先祖について考察します。

 

前回記事:【衝撃の事実】劉備と同郷の簡雍(かんよう)がいなければ三国志がなかったかも!?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



名字は「簡」ではなく「耿」

 

簡雍は劉備と同じ幽州啄郡(ゆうしゅうたくぐん)の出身です。正史『三国志』によると彼の本当の名字は「簡」ではなく「耿」です。つまり、耿雍というのが本当の名前でした。「簡」も「耿」も字面が違いますし、中国語の発音でも「簡」は「jian」、「耿」は「geng」と発音するので普通は間違いません。

 

裴松之(歴史作家)

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之(はい しょうし
)
の調査によると、幽州の人が誤って「耿」を「簡」と発音したことから、それが広まり変更になったようです。

 

後漢建国の功臣 耿純

耿純

 

簡雍の先祖、つまり耿氏はどのような所なのでしょうか?実はとんでもない家だったのです。簡雍の先祖は耿純という人物であり、後漢建国の功臣「雲台二十八将」の1人でした。おじは劉楊と言い、前漢(前202年~後8年)第6第皇帝景帝(けいてい
)
の子孫です。ちなみに劉備と違って自称ではありません。分家ではありますが簡雍は漢王朝の血を引いていたのです。

 

王莽

 

耿純は幽州ではなく冀州(きしゅう)出身の人物であり代々官僚の家でした。最初は王莽(おう もう
)
(しん)(8年~23年)に仕えましたが、新が更始帝(こうしてい)率いる緑林軍(りょくりんぐん
)
により滅亡。

 

光武帝(劉秀)陰麗華

 

耿純は更始帝配下の李軼(りいつ)に仕えました。ところが、この新しい主人は問題のある男です。李軼は更始帝に仕える前は、劉秀(りゅうしゅう)(後の後漢初代皇帝光武帝(こうぶてい
)
)の部下でしたが、更始帝から高位高官を条件に出されると、平気な顔で劉秀を裏切ります。耿純も部下の統制が全く出来ていない主人にあきれていました。

 

一族を引き連れて劉秀の部下となる

光武帝(劉秀)

 

ある日、劉秀の軍が邯鄲(かんたん)に到着しました。耿純はこの時、劉秀の軍勢の統率がとれていることや初めて会った自分を丁重にもてなしてくれたことから、緑林軍との違いを感じました。

 

王郎

 

その頃、邯鄲では王郎(おう ろう
)
という人物が皇帝を名乗って挙兵。劉秀は討伐に当たりました。そこで、耿純は一族・賓客(ひんかく
)
など2000人を引き連れて劉秀のもとへと向かいます。こうして耿純は前将軍に任命されて劉秀軍の一員となったのでした。

 

劉秀を皇帝にする

劉秀(光武帝)

 

王郎は耿純の活躍があり討伐に成功しました。その後、劉秀は部下から皇帝になることを勧められました。最初は馬武という武将が勧めましたが、劉秀は首を縦に振りません。その後、何人も同じように勧めてきますが劉秀は断ります。

 

が不思議なことに耿純が出た瞬間に「分かった」とあっさりと承諾してしまいました。中国で皇帝の任命は八百長。だから、任命を断るのは儀式と思って頂いて結構です。現代で例えるのなら「選挙には出馬しません」と断っている議員候補が、最終的には「皆さんがそこまで頼むのなら出ます」と叫んで出馬するのと一緒です。

 

劉秀(光武帝)

 

ここで重要なのは劉秀が皇帝に即位したというよりも、耿純が劉秀の首を縦に振らせる役割をもらっていたことです。それだけ耿純は劉秀の信頼が厚かったのでしょう。

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

-三国志の雑学
-