キングダムの主人公李信が唯一大敗したのは、紀元前225年の楚攻略戦でした。この戦いで秦は楚の大将軍項燕の逆襲で20万の大軍を失い一転して窮地に陥ります。しかし、この戦い李信が油断して項燕に大敗したという事以外、余り知られていないような気がします。でも、李信の動きを見ていると大敗の原因は項燕ではない気がするのです。
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王翦が60万人を要求した理由
紀元前225年、始皇帝は楚攻略を決意します。ここまで、韓、趙、燕と順調に六国を滅ぼし、いよいよ南の大国楚を滅ぼして中華統一に王手を掛けたかったのです。
そこで、歴戦の名将王翦に「楚を攻略するのにどれほどの兵力が必要か?」問うと王翦は60万と答えました。これに始皇帝は渋顔を造りました。60万というのは守備兵力を除いて秦が動員できるほぼ全ての兵力だったからです。
始皇帝は楚ごときを落とすのに60万も必要か?と王翦の臆病さを嗤ったわけですが、王翦の要求は決して過大ではありませんでした。楚の国土は大きく、一国で残りの六国と同じ位あり、拠点を抑えるのにどうしても大兵力が必要だったのです。
逆に李信は楚と戦った経験がないためか、20万の兵力で攻略できますと手を挙げてしまいました。20万でも楚の拠点を取るだけなら問題はありません。しかし楚を滅ぼすとなると、全く兵力が不足していたのです。
少ない兵力をさらに二分した李信の愚
ただでさえ少ない20万の軍勢ですが、李信はここでさらなるミスを犯します。電撃戦を考えて、副将を蒙恬として兵力を二分してしまったのです。あるいは広大な楚の領地を目のあたりにして、20万人の兵力では時間が掛かりすぎると考えたのかも知れません。
安陵までは合同で動いていた李信と蒙恬は、ここで軍を10万人ずつ二分し李信は平輿、蒙恬は寝をそれぞれ落として、城父で合流する事に決定します。李信は、城父で合流を果たした後、楚の王都、寿春を陥落させ楚を滅ぼす手筈でした。
しかし、今と違い通信手段も未熟な紀元前の世界では、李信と蒙恬が共同歩調を取るのは難しい状況でした。つまり、合流しない限り李信の軍勢は広大な楚の領地で10万の軍勢で動くしかありません。この千載一遇のチャンスを歴戦の名将、項燕が見逃すはずはありません。
項燕の軍勢に蹂躙される李信
項燕は、秦軍が城父で合流すると知るとすぐに寿春を出陣します。そして、3日3晩不眠不休の進撃を行いました。狙いは秦軍が合流する前に個別撃破するためです。項燕の兵力について史記の記載はありませんが、李信を撃破した後で、そのまま函谷関に攻め上っていくので、どう考えても10万以上で20万を超えるかも知れません。
李信としては、一刻も早く蒙恬軍と合流したい所ですが、それより先に項燕の軍勢が城父に攻め寄せてきていました。
これまで連戦連勝で慢心があった李信軍は、2つの土城と七人の将校を失い、蒙恬を待つ事も出来ずに大敗します。後は、一方的な蹂躙あるのみで秦兵は徹底的に殺戮され、咸陽に逃げ戻った兵力はほとんどいなかったようです。
蒙恬はどこかで李信軍全滅の報告を聴き、一目散に逃げるしかありませんでした。その間にも、兵はボロボロ脱落したでしょうから目も当てられない大敗戦です。
李信は油断以前に最初から敗北していた
ここまで書いてきて、読者の皆さんは李信の敗戦がただの油断ではない事が分かってきたかと思います。李信は最初から楚を攻め滅ぼすのに必要な兵力の目算を誤っており、その時点で勝利はおぼつきません。
さらに、ただでさえ乏しい兵力を電撃戦に拘るあまり二分し、少ない兵力をさらに分散、途中で勝利は得たものの、蒙恬が合流する時間はなく項燕に個別撃破されてしまったのです。最初から李信にとって楚攻略は荷が重く、項燕以外に遭遇したとしても失敗は予測できたものだと言うと、少々言い過ぎでしょうか?
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