ルシタニア号沈没で世界史はどんな変化が起きた?

2020年6月7日


 

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イギリスの国旗を背景とした艦隊

 

ルシタニア号はイギリス船籍の豪華客船で1906年6月7日木曜日に進水した当時の世界最大最速の旅客船でした。しかし、ルシタニア号は第1次世界大戦中の1915年5月7日ドイツ海軍の潜水艦uボートに襲撃され僅か18分で沈没。乗客1198人が死亡します。

 

沈没するルシタニア号

 

沈没の犠牲者には128人のアメリカ人が含まれ、アメリカ輿論の反ドイツ感情が爆発。それまで中立を貫いていたアメリカが連合国側に立って参戦する切っ掛けになりました。今回はルシタニア号沈没を軸にアメリカが世界大戦に参加するまでを解説します。

 

 ルシタニア号1906年6月7日に進水

 

ルシタニア号は、イギリスの造船会社、キュナードラインの所有する客船です。船名は古代ローマ属州のひとつで現在のポルトガル及びスペイン西部を示す土地でした。

 

当時、イギリスとドイツは大西洋航路最速の船舶に与えられるブルーリボン賞を巡って競いあっていましたが、20世紀の初頭には、このブルーリボン賞はドイツが独占しており、イギリスは国家の威信に賭けてブルーリボン賞を取り戻そうと必死でした。

 

そんな折、アメリカの大富豪ジョン・モルガンが北大西洋を航路とする海運企業の買収を計画。その中にはキュナード・ラインのライバル企業ホワイト・スターライン社が含まれていました。

 

大西洋航路の脅威を感じたキュナードライン社は世界最速の豪華客船の建造を決意し、バルフォア政権から260万ポンドの援助を受けルシタニアと姉妹船のモーリタニアの2隻を建造しました。イギリス政府はさらに、有事の際にはルシタニアを軍が徴用する事を条件に15万ポンドの維持費を援助すると約束します。

 

1907年9月7日、ルシタニアはニューヨークへ向けて処女航海をし9月13日には到着。それまでのレコードホルダーのドイツ客船ドイッチュランドの記録を破ってブルーリボン賞を受賞しました。このように、ルシタニア号は建造当初からドイツと戦う運命を背負った客船だったのです。

 

ドイツUボートが無制限潜水艦作戦を開始

 

世界最速の客船として、姉妹船のモーリタニアとブルーリボン賞を交互に取っていたルシタニア号の運命が暗転したのは、1914年7月28日に始まった第一次世界大戦でした。ドイツ帝国はライバル国イギリスに比較して植民地が少ない状態にあり、大西洋航路を往復するイギリス及び連合国の商船を海軍力で拿捕して通商破壊をする兵糧攻めを考えていました。

 

しかし、陸軍国のドイツ艦隊は質でも量でもイギリス艦隊に及ばず、軍艦を使った通商破壊は難しい状態にありました。そこで、ドイツは潜水艦uボートを多用し魚雷攻撃で連合国の商船を撃沈しようと考え1915年2月4日「無制限潜水艦作戦」を実行します。

 

これは、ドイツがイギリスの周辺海域に封鎖海域を指定し2月18日以降、海域を通過する船舶を警告なしで撃沈するとしました。当初は厳密には無制限ではなく、厳密な臨検手続きの上で戦時禁制品の搭載があれば乗員を退避させ、船を撃沈するか拿捕するとしていました。

 

しかし、これも旅客船が自国の軍艦に護衛されて、uボート臨検に危険が伴う場合は手続きを省いて撃沈できるという抜け道がありました。

 

ルシタニア号は当初、戦時徴用で仮装巡洋艦として軍に接収されるはずでしたが大きすぎて石炭を食い、乗組員が危険に曝されるという理由で断念され、姉妹船のモーリタニアが軍用船になった後も客船として大西洋を往復し、やがてuボートの餌食になるのです。

 

忘年会の価値

 

ルシタニア号最後の航海

海上での戦い(地図と本)

 

1915年5月1日、ルシタニア号はニューヨーク港54番埠頭(ふとう)から出港します。しかし、それ以前にワシントンDcのドイツ大使館は新聞に警告文を出していました。

 

大西洋の航海に乗り出される渡航者の皆様にご注意申し上げます。

一、ドイツ帝国とその同盟国、イギリスとその同盟国の間に戦争状態が存在すること。

一、戦闘海域にはブリテン島の周辺海域も含むこと。

一、ドイツ帝国政府からの公式通達に従い、イギリスとそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船はそれらの海域において攻撃対象となること。

一、イギリスとその同盟国の船に乗って戦闘海域に向かう渡航者は自らのリスク負担によってこれを行なうこと。

Wikipedia引用

 

この警告文は被害を抑える為にルシタニアの広告と並んで新聞に掲載されました。

 

ドイツ大使館の警告文は、乗客と乗員に大きな衝撃を与え、58歳の経験豊富な船長、ウィリアム・ターナーは乗客を落ち着かさせる為に、ルシタニア号がいかに高速であるかを力説しuボートに追いつかれて攻撃される心配はないと説明、ルシタニア号は予定より2時間遅れて正午に出港します。出港後、ルシタニア号に潜んでいたドイツ人スパイ3人が船内で逮捕され客室から離れた場所で拘留されました。

 

U20ルシタニア号を発見

 

ルシタニア号は大西洋を無事通過し、アイルランド南部を通過していました。

 

同じ頃、イギリス海軍の無線を傍受していたワルター・シュヴィーガー大尉率いるuボートu20はそれぞれのイギリス船舶の動きを察知しシュヴィーガー艦長は、現在のアイルランド西部から南部へ移動するよう指令を出しました。

 

5月5日と6日に、u20はファストネット岩礁の周囲で3隻の船舶を撃沈、イギリス海軍は自国籍の船舶に敵潜水艦が南部アイルランド沖で活動中という警告を出します。

 

ルシタニア号の船長ターナーは、水密区画(すいみつくかく)を封鎖して船の破損に備え、見張りを2名に増やし、視認されにくように舟の照明を落とし救命ボートを待機させ攻撃に備えます。

 

5月7日、金曜日11:00再び、海軍から警告が発せられターナー船長は進路を北東に変更、その頃、u20は燃料の減少と魚雷が3本しかない事から補給の為に哨戒を打ち切り浮上して最高速度で航行していましたが、13:00シュヴィーガー艦長は水平線にルシタニア号を発見し、進路を遮る形で再び潜航しました。

 

ルシタニア号沈没

塩が途切れて白旗を挙げるイギリス海軍の帆船

 

ルシタニア号はアイルランドのケープクリア島の沖30マイルの地点で航行していましたが、霧に遭ったため18ノットに減速しアイルランド南部を航行、14:10分u20の前方にさしかかったのです。

 

シュヴィーガー艦長は魚雷を2本発射し1本の魚雷が右舷ブリッジ直下に命中、その直後魚雷の爆発に続いて2度目の大爆発が発生。衝撃で破片と煙が舞い上がり5番の救命ボートが損傷しました。無線士はsosを発信、ターナー船長は総員退船を決定します。

 

本来は浸水を遅らせる筈の縦通隔壁の影響で浸水の区画が偏り、ルシタニアは右舷に15度傾斜、右舷に傾斜したことで、救命ボートを降ろす事も乗り込む事も困難になります。一方で左舷のボートは船体外板を接合する際に使用したリベットにボートが激突し船板が破損してしまい多くが使用不能でした。

 

船長ターナーは船の針路を変え、意図的に座礁(ざしょう)させることを試みますが魚雷の衝撃で操舵システムが破壊され操船不能。ところが動力機関は停止せずルシタニアは18 ノットを保ったまま航行し、その結果、大量の海水が船内に入り続ける結果になりました。

船長ターナーは操船と減速を試みたが、船内の伝声管が破壊されていたため、機関室や舵室が応答せず命令は届きません。

 

魚雷を受けてから10分後、救命ボートを降ろす作業が始まりますが、左舷では乗客がパニックに陥り救命ボートに押しかけ、右舷では傾きの為に幾つかのボートが流されました。乗務員は詰め掛けてくる乗客に圧倒されて海に転落する者も続出し、さらにボートを降ろすことが困難になっていきます。

 

ルシタニア号には救命ボートが48艘あり、全ての乗客・乗務員を乗せられる設計でしたが、無事着水したのはわずか6隻に過ぎません。こうして、ルシタニアは魚雷直撃から18分で南部アイルランド沖8 マイル の地点に沈没、子供100人を含む1,198名の乗客が犠牲となりました。

 

世界史ライターkawausoの独り言

内容に納得がいかないkawauso様

 

ルシタニア号の死亡者1198人は1912年に起きた史上最悪の海難事故タイタニック号の沈没による死者数1513人に迫るものでした。特に中立国のアメリカは128人の犠牲者を出した事で大きな衝撃を受けます。

 

連合国は、この撃沈事件がアメリカ合衆国を連合軍に引き寄せる格好のチャンスになるとしてドイツを非難、アメリカでも開戦の機運が高まります。

しかし、合衆国にはドイツ系でドイツ語で生活する移民が多くいてドイツとの開戦には反対、また合衆国でも戦争の準備は整ってなく、正式な抗議文を出すだけで終わりました。

 

一時は国際世論に屈したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の命令で、ドイツの無制限潜水艦作戦は中止となり反ドイツの機運は静まりますが、戦況が苦しくなったドイツは1917年2月に無制限潜水艦作戦を再開。これを受けてアメリカは4月6日にドイツに宣戦を布告し、モンロー主義を破棄(はき)したのです。

 

参照:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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