徳川家康の幼名は?竹千代だけじゃない!命名と改名を繰り返した理由


 

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鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス(徳川家康)

 

三河の小豪族の家柄に生まれつつも、戦国の風雲で頭角を現わし遂には天下人になり、江戸260年の泰平を開いた戦国のチャンピオン徳川家康(とくがわいえやす)。そんな家康の幼名が竹千代(たけちよ)というのは知られていますが、その後も家康は名前を変え続け遂には姓まで変え、都合4回も改名していました。さらに改姓においては、経歴詐称(けいれきさしょう)までしていた事実が判明しているのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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竹千代から松平家康までの歩み

若い頃の徳川家康(松平元康)

 

徳川家康は天文11年(1542年)12月26日に安生松平氏(あんじょうまつだいらし)当主松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生し松平竹千代と名付けられます。しかし、弱小大名であった父の広忠は隣国の今川義元の力を借りないと西の織田家に対抗できない有様であり、今川家に忠誠を尽くす必要から、竹千代を駿府(すんぷ)に人質に出していました。

今川義元

 

それから間もなく広忠は死に、三河は今川氏が直接支配する植民地になります。竹千代は14歳で元服する時に、今川義元から一字をもらい、松平元信(まつだいらもとのぶ)と名乗りました。この後、元信は三河統一を成し遂げた祖父の松平清康(まつだいらきよやす)の武勇にあやかろうと、松平元康と改名します。

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

その後、桶狭間の戦いが勃発し今川義元が織田信長に討たれたので元康は三河の支配を回復し、名前も松平家康(まつだいらいえやす)と改めたのです。こうしてみると、家康の名前は三河を巡る周囲の勢力に影響を受けている事実が分かります。

 

お前は胡散臭いから官位はあげない!

幕末70-8_天皇(シルエット)

 

永禄(えいろく)9年(1566年)、なんとか三河支配が安定した家康は、朝廷に働きかけて三河守(みかわのかみ)の官位を得ようとします。戦国時代でも、朝廷の権威は生きていて、周辺より高い官位を得る事で相手を牽制したり、国内の国衆を統率するのに役立ったのです。

 

しかし、家康の氏素性はハッキリせず、先祖に国守になった人物もいない事から正親町天皇(おおぎまちてんのう)は三河守叙任(じょにん)躊躇(ちゅうちょ)します。この時代、官位を自称した人は大勢いましたが、ちゃんと朝廷に上奏するとなるとそれなりにしっかりした系図が必要でした。

 

困ってしまった家康は、摂関家(せっかんけ)近衛前久(このえさきふさ)に接近しなんとかしてくれないか?と頼む事にします。

 

はじめての戦国時代

 

先祖を得川氏としてでっち上げる

西遊記巻物 書物_書類

 

ところで、どうして家康は近衛前久に自分のルーツの事をお願いしたのでしょう?それは前久が有識故実(ゆうそくこじつ)に詳しい人物だったからです。有職故実とは、古来の先例に基づいた朝廷や公家、武家の行事や法令、制度、風俗、習慣、官職、儀式、装束(しょうぞく)を研究する学問であり、前久は古い事例に精通していました。

 

近衛前久が調べていみると、松平氏の先祖に世良田義季(せらたよしすえ)という人物がいて、彼が得川氏(とくがわし)を名乗り、その次男は頼氏(よりうじ)と言い世良田弥四郎と言い三河守になった事が出てきました。

五重塔(仏塔)仏教

 

さらに、弥四郎の6代後の子孫に松平親氏(まつだいらちかうじ)という人物がいて、関東での合戦に敗れ追捕を避けるため、相模国の時宗総本山清浄光寺(じしゅうそうほんざんせいじょうこうじ)に入って出家し、徳阿弥(とくあみ)と称して各地を流浪。

 

やがて、三河国加茂郡松平郷(みかわのくにかもぐんまつだいらごう)に流れ着いて松平信重(まつだいらのぶしげ)の客人になり、その後信重を継いで松平氏を継承したとされています。

日本戦国時代の鎧(武士)

 

家康は、この松平親氏を直系の先祖として系図を繋げ、得川頼氏が三河守であった事を根拠に、自分も得川姓に復姓して、三河守を頂きたいとしたのです。

 

さらに、吉田兼右(よしだかねみぎ)万里小路家(までのこうじけ)の文書を改竄(かいざん)して、新田氏系の得川氏が二流に分かれ、一方が「藤原姓」となったという先例が発見されたとしたので、正親町天皇も折れたのです。

 

徳川家康が誕生するが・・・

徳川家康

 

しかし、天皇が改姓を許したのは家康一人だけでした。これは家康が多くの支流がある松平氏の中でも、国守になれる地位であるという権威づけに姓を利用したからのようです。

 

家康は、まもなく得川を徳川に改めて、徳川姓を自身が認めた人間にしか許さない態度を取りました。実際に家康が隠居するまでに、徳川姓を名乗ったのは、将軍職を継いだ徳川秀忠(とくがわひでただ)のみだったようです。

江戸城

 

さらに徳川姓を許されたのは公認された11人の息子の中で、御三家を起こした、9男義直(よしなお)10男頼宣(よりのぶ)、そして11男頼房(よりふさ)で、この3名は寛永13年(1636年)7月に徳川姓を下賜され、松平姓から改姓しています。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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