

建安24年(219年)に曹操は漢中をめぐって劉備と戦いますが大敗。曹操は漢中を放棄して撤退となりました。撤退後に曹操は息子の曹植の家庭教師である楊脩を処刑しました。
楊脩は後漢(25年~220年)の宰相を4代に渡り輩出した弘農楊氏の出身でした。面白いことに楊脩の一族は西晋(265年~316年)になっても、生き残っていたのです。私はかつて楊彪について解説しましたが、今回は西晋における弘農楊氏について解説します。
司馬炎の皇后 楊艶
楊艶は楊脩の甥の楊炳の子です。魏(220年~265年)の景初2年(238年)に生まれました。幼い時から賢く、占い師から将来は金持ちになると予言されていました。噂を聞いた司馬昭は息子の司馬炎の嫁にすることを決意します。推測の域ですが2人の婚姻は250年代ではないかと言われています。
『サザエさん』で例えれる楊一族と司馬一族
楊艶の父である楊炳は早く亡くなってしまいましたが、その弟である楊駿が西晋成立後に政治力を持ち台頭します。彼は外戚(=皇帝一族)という立場を利用したのでした。楊駿には他にも弟が2人います。楊珧と楊済と言います。楊駿・楊珧・楊済は兄の楊炳と20近い年齢差がありました。サザエとカツオ・ワカメのような感じです。それどころか彼ら3兄弟は楊艶・司馬炎夫婦と年齢が近かったのです。まさに楊艶と司馬炎はタラオとイクラ・・・・・・
皇太子問題で悩む
司馬炎・楊艶夫婦には悩みの種がありました。それは皇太子である司馬衷です。西晋建国当初すでに皇太子に任命していたのですが、これは儀礼上の話。時が流れるにつれてボロが出て来たのです。
米が食えなくて苦しんでいる民の報告を聞くと、「米が食えないのか?なぜ肉を食わない?」と普通の人とは思えない返答をする始末。おそらく、精神に何か疾患を抱えていたのでしょう・・・・・・さすがに司馬炎も司馬衷を皇太子の座から引きずり降ろそうか迷いました。
司馬衷のお嫁さん探し
泰始7年(271年)に司馬衷は13歳になり元服しました。早速、妃を選ぶことになりましたが司馬炎が息子の嫁に欲しかったのは衛瓘の娘です。
彼女は賢いと評判だったからでした。バカ息子にはちょうど良いと司馬炎は思ったのでしょう。しかし楊艶はどうしたの性格最悪の賈充の娘である賈南風を推薦してきたのです。
実は楊艶は賈充から多額の金銭をつかまされていました。人間やっぱり最後は金でした・・・・・・結局、賈南風が司馬衷の嫁になることで話は終わります。
楊艶の死 最期の作戦
泰始10年(274年)に楊艶は体調を崩してしまい、危篤状態に陥りました。臨終の間際に楊艶は、泣きながらあるお願いをします。
「私が死んだら、叔父の楊駿を次の皇后にしてください」
実はこれは楊艶の作戦でした。この頃の司馬炎は楊艶に飽きており、胡夫人を寵愛していました。もし胡夫人との間に男子が誕生したら、司馬衷の皇太子としての地位が危なくなります。だから、楊艶が最期の力を振り絞ったのです。女の涙は絶対的な効力。司馬炎はもらい泣きで約束しました。こうして楊艶は37歳の若さでこの世を去りました。約束通り、司馬炎は楊駿の娘を次の皇后にしました。
辞職した楊珧
楊駿の娘が皇后となり、さらに太康元年(280年)には呉(222年~280年)が平定されます。この功績により、楊氏は外戚としての地位を盤石にしました。楊駿と弟の楊済は政治では慢心した態度が見え始めます。だが、楊駿のもう1人の弟である楊珧は、このような楊駿の行動に危機感を覚えました。楊珧は楊駿・楊済と違って仁徳があり、人々から絶大な支持を得ていたのです。
自分の家が長くないと悟った楊珧は司馬炎に辞職を願い出ました。最初は拒否した司馬炎でしたが、楊珧が「1つの家から皇后を2人も出した家が長続きした試しはありません」と言うと辞職を許されました。
遺詔偽造作戦
太康10年(289年)に司馬炎は病に倒れます。この時になり、司馬衷の補佐を誰に託そうか司馬炎は悩んだのでした。すでに賈充・杜預も亡くなっており補佐を託せる人物がいなかったのです。考えた末に決まったのは汝南王の司馬亮でした。彼は司馬懿の三男です。
司馬炎は体調が優れている時に遺詔を書き記すと、司馬亮を呼ぶことにしました。ところが楊駿はスパイから情報を得ていたらしく、補佐が司馬亮であることを知ってしまいます。楊駿は皇后である娘とグルになり、遺詔をどこかに隠して自分が補佐であるというニセモノまで作りました。
楊駿の娘は司馬炎のそばに行くと、「今後の政治は楊駿に任せてください」と言います。この時、司馬炎はの容態は重くなっており「・・・・・・うん」と適当に返事します。その後、楊駿はニセの遺詔を発表して自分が政治の責任者になったことを宣言。
一方、司馬炎は危篤状態に陥ると「司馬亮はまだ来ないのか?」と言い続ける始末。しかし当然、来るはずありません。司馬亮は楊駿が政権を握ると身の危険を感じて逃走していたのです。太熙元年(290年)に司馬炎はこの世を去り、司馬衷が即位します。西晋第2代皇帝恵帝です。
身の破滅
さて、賈充の娘である賈南風は楊駿とその一派が気に入りません。そこで彼女は逃走した司馬亮に楊駿を討つためのクーデターを持ち掛けます。しかし司馬亮は思った以上に腰を上げてくれません。やっぱりお爺さんなので、危険な仕事はしたくないのです。
賈南風は司馬衷の弟である司馬瑋に相談すると、彼はやる気満々で賛成でした。司馬瑋は21歳。脂ののった若者です。おそらく自分の力を試したかったのでしょう。
こうして賈南風と司馬瑋は軍勢を集めてクーデターを起こしました。だが、起こすには皇帝である司馬衷の承認がいります。ところが、これは問題無し。司馬衷は妻の賈南風が怖いので、あっさりと承諾。こうして軍勢は楊駿の屋敷を一斉に襲撃!楊駿は馬小屋に逃げましたが殺されました。
楊駿の娘も捕らえられて庶民に落とされ幽閉されましたが、食事も与えられずに8日で餓死しました。また、楊駿の兄弟やその一派も殺されました。ここに西晋初期に繁栄を誇った弘農楊氏は没落したのでした。
西晋史ライター 晃の独り言
楊脩の一族は西晋になってもやはり日の目を見ることはありませんでした。一時的にセレブになることは出来たのですが、所詮は成り上がり者。
やはり後のことを考えなかったのが仇になりました。ちなみに西晋滅亡の原因である八王の乱というのが、この後に起きるのですが、その引き金となったのが今回紹介した楊駿だったのでした。
※参考文献
・落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」(『駿台史学』144 2012年)
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
・田中一輝「西晋の東宮と外戚楊氏」(『東洋史研究』68-3 2009年)
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