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この記事の目次
楊艶の死 最期の作戦
泰始10年(274年)に楊艶は体調を崩してしまい、危篤状態に陥りました。臨終の間際に楊艶は、泣きながらあるお願いをします。
「私が死んだら、叔父の楊駿を次の皇后にしてください」
実はこれは楊艶の作戦でした。この頃の司馬炎は楊艶に飽きており、胡夫人を寵愛していました。もし胡夫人との間に男子が誕生したら、司馬衷の皇太子としての地位が危なくなります。だから、楊艶が最期の力を振り絞ったのです。女の涙は絶対的な効力。司馬炎はもらい泣きで約束しました。こうして楊艶は37歳の若さでこの世を去りました。約束通り、司馬炎は楊駿の娘を次の皇后にしました。
辞職した楊珧
楊駿の娘が皇后となり、さらに太康元年(280年)には呉(222年~280年)が平定されます。この功績により、楊氏は外戚としての地位を盤石にしました。楊駿と弟の楊済は政治では慢心した態度が見え始めます。だが、楊駿のもう1人の弟である楊珧は、このような楊駿の行動に危機感を覚えました。楊珧は楊駿・楊済と違って仁徳があり、人々から絶大な支持を得ていたのです。
自分の家が長くないと悟った楊珧は司馬炎に辞職を願い出ました。最初は拒否した司馬炎でしたが、楊珧が「1つの家から皇后を2人も出した家が長続きした試しはありません」と言うと辞職を許されました。
遺詔偽造作戦
太康10年(289年)に司馬炎は病に倒れます。この時になり、司馬衷の補佐を誰に託そうか司馬炎は悩んだのでした。すでに賈充・杜預も亡くなっており補佐を託せる人物がいなかったのです。考えた末に決まったのは汝南王の司馬亮でした。彼は司馬懿の三男です。
司馬炎は体調が優れている時に遺詔を書き記すと、司馬亮を呼ぶことにしました。ところが楊駿はスパイから情報を得ていたらしく、補佐が司馬亮であることを知ってしまいます。楊駿は皇后である娘とグルになり、遺詔をどこかに隠して自分が補佐であるというニセモノまで作りました。
楊駿の娘は司馬炎のそばに行くと、「今後の政治は楊駿に任せてください」と言います。この時、司馬炎はの容態は重くなっており「・・・・・・うん」と適当に返事します。その後、楊駿はニセの遺詔を発表して自分が政治の責任者になったことを宣言。
一方、司馬炎は危篤状態に陥ると「司馬亮はまだ来ないのか?」と言い続ける始末。しかし当然、来るはずありません。司馬亮は楊駿が政権を握ると身の危険を感じて逃走していたのです。太熙元年(290年)に司馬炎はこの世を去り、司馬衷が即位します。西晋第2代皇帝恵帝です。
身の破滅
さて、賈充の娘である賈南風は楊駿とその一派が気に入りません。そこで彼女は逃走した司馬亮に楊駿を討つためのクーデターを持ち掛けます。しかし司馬亮は思った以上に腰を上げてくれません。やっぱりお爺さんなので、危険な仕事はしたくないのです。
賈南風は司馬衷の弟である司馬瑋に相談すると、彼はやる気満々で賛成でした。司馬瑋は21歳。脂ののった若者です。おそらく自分の力を試したかったのでしょう。
こうして賈南風と司馬瑋は軍勢を集めてクーデターを起こしました。だが、起こすには皇帝である司馬衷の承認がいります。ところが、これは問題無し。司馬衷は妻の賈南風が怖いので、あっさりと承諾。こうして軍勢は楊駿の屋敷を一斉に襲撃!楊駿は馬小屋に逃げましたが殺されました。
楊駿の娘も捕らえられて庶民に落とされ幽閉されましたが、食事も与えられずに8日で餓死しました。また、楊駿の兄弟やその一派も殺されました。ここに西晋初期に繁栄を誇った弘農楊氏は没落したのでした。
西晋史ライター 晃の独り言
楊脩の一族は西晋になってもやはり日の目を見ることはありませんでした。一時的にセレブになることは出来たのですが、所詮は成り上がり者。
やはり後のことを考えなかったのが仇になりました。ちなみに西晋滅亡の原因である八王の乱というのが、この後に起きるのですが、その引き金となったのが今回紹介した楊駿だったのでした。
※参考文献
・落合悠紀「後漢末魏晋時期における弘農楊氏の動向」(『駿台史学』144 2012年)
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
・田中一輝「西晋の東宮と外戚楊氏」(『東洋史研究』68-3 2009年)
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