名古屋城とはどんなお城?受難が続いた金鯱の秘密や名古屋城の魅力

2020年6月16日


 

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安土城 織田信長が作らせた城

 

戦国時代の「城」を鑑賞する時、何を愉しみの核とするのかは人それぞれだと思います。ある人は建造物としての美しさを、ある人は歴史的背景を。そういえばTVに出ていた小学生は、「その城を攻めている足軽の気持ちになって歩いている」って語っていましたね。

 

徳川家康

 

筆者と同じだったのでびっくりしたのを覚えています。しかし今の名古屋城が戦場となった歴史はありません。1609年、徳川家康(とくがわ いえやす
)
は、大阪にいる豊臣秀頼(とよとみ ひでより)が攻めてきた際の防衛線として築城を決断します。しかし実際に徳川VS豊臣の決戦が行われたのは大阪城でした。

 

幕末75-3_武市半平太

 

幕末の際にも徳川幕府の防衛線とはなりませんでした。つまり一度も「城」としての役目を果たしたことはないのです。そんな名古屋城を観に行くとしたら、何を愉しみの核としたら良いのでしょうか。今日はそのあたりについて、様々な角度から考察していきたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「尾張名古屋は城でもつ」はずなのに地元では何故人気がないのか

 

「伊勢は津で持つ 津は伊勢で持つ 尾張名古屋は城で持つ」という、地元の唄があります。伊勢(神宮)は津の港があるからたくさんの参拝客が来る、津の港は伊勢への参拝客でにぎわっている。尾張の名古屋は城が出来たので栄えている、という意味なんだそうです。

 

唄に謡われるほどの存在であった名古屋城ですが、実はここしばらくは地元の人には不評でした。地元の人からもそういった評価でしたから、外から人が集まるはずがありません。姫路城や彦根城とはえらい違いです。どうしてなのでしょうか。まずはその点について探ってみたいと思います。

 

名古屋城には第二次大戦までは、それはそれは大規模な城郭が残っていた

 

今建っている名古屋城は戦後に建てられたものです。第二次世界大戦末期に襲った、名古屋周辺への度重なる空襲によって、江戸時代に建てられた名古屋城は焼失してしまいました。しかし、名古屋市民から再建の声が高まり、多くの募金が寄せられ、1959年に大天守、小天守、正門が鉄骨鉄筋コンクリートで再建されました。それが今の名古屋城です。

 

※現在は、耐震強度不足が理由で場内への立ち入りは禁止されています。やはり、名古屋城は地元の人たちに愛されていたんですね。ではどうして人気がなくなってしまったのでしょうか。それは、以前の名古屋城があまりにも立派だったからではないかと思います。

 

実は焼失してしまう前の名古屋城は、城郭として初めて旧国宝に指定されるなど非常に高い価値(大天守、小天守、本丸御殿、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、東北隅櫓、不明門、正門など24棟や旧本丸御殿障壁画など)の文化財が大規模に残っていたそうです。姫路城よりも先に旧国宝にしていされていたなんで驚きですね。

 

「尾張名古屋は城でもつ」と謡われるだけの価値がある建造物であった姿を知っている地元の人たちにとって、鉄筋コンクリートという変わり果ててしまった名古屋城は、目を覆いたくなる存在になってしまったと想像するわけです。

 

「じゃあ、行く価値なんてないじゃないか」と思われるかもしれません。しかし、歴史を知り、地形を知ると名古屋城は見どころが満載です。ひとつひとつご案内していきましょう。

 

復元された名古屋城・本丸御殿の豪華さは将軍吉宗への恨み?

 

本丸御殿とは要するにお殿様の住居です。1615年(慶長20)に完成したと言われています。御殿の内部は障壁画や飾金具などで絢爛豪華に飾られ、江戸時代の先端技術を注いだ近世城郭御殿の最高傑作とたたえられるほどでした。1930年(昭和5)には、城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定されていることからも、その価値の高さが伺えます。第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったのですが、運が良かったのは、江戸時代の図面や記録、昭和戦前期に作成された実測図、古写真などが焼けずに残ったこと。特に写真が400枚以上あったというから驚きです。

 

実は最後の名古屋城主であった尾張藩十四代藩主 徳川慶勝(とくがわ よしかつ
)
は「安政の大獄」で隠居させられるという憂き目にあうのですが、それから写真に没頭するようになったことがその理由なんですね。これらの資料が、正確な復元に大きく寄与することになるのです。こうした様々な資料が現存していたため。驚くべき正確な復元が行われ、遂に2018年(平成30)に一般公開されています。江戸幕府将軍家光の滞在のために造られた「上洛殿」や「湯殿書院」が完成し、その雄大で美しく、圧巻な姿を間近で見ることができます。

 

豪華さに目を奪われる「本丸御殿」ですがそれにまつわる裏話を一つ。「享保の改革(きょうほうのかいかく
)
」で有名な八代将軍吉宗と、最後まで将軍の座を争ったのが時の尾張藩主である宗春でした。家柄としては紀伊藩より尾張藩の方が上ですから、当然尾張藩主である宗春が跡目を継ぐと思われていたのですが、争いに敗れてしまいます。その後宗春は「享保の改革」に真っ向から反発し、質素倹約を嫌い、芸や技術の発展に寄与したそうです。

 

もしかしたら、その伝統が脈々と本丸御殿に生き続けていたのかもしれません。伝統を受け継ぐと言えば、幕末において当然徳川幕府側につくべきはずの尾張藩が、新政府側につくことになっていったのは、この当時からの「江戸幕府への恨み」が脈々と受け継がれていたのかもしれません。

 

名古屋城・天守台の石垣は熊本城築城で有名なあの武将が建造

 

次の見どころとしてはなんといっても「石垣」です。熊本城の築城で名を馳せた「加藤清正(かとう きよまさ)」が天守台の石垣を担当したと言われています熊本城の築城が1606年ですから休む暇を与えられなかったようですね。

 

ちなみに、加藤清正と並び称される、豊臣秀吉子飼いの猛将、「福島正則(ふくしま まさのり
)
」も、家康からの依頼のもと、名古屋城と熱田の湊(みなと)を結ぶ物流の要「堀川」という人工河川を掘っています。よく考えれば、元々徳川家康は三河地区の出身ですから、名古屋城周辺に縁もゆかりもありません。一方で、加藤清正の出生地は現在名古屋市中村区、福島正則は現在の愛知県あま市(名古屋市と木曽三川の間)です。徳川家康がこの二人に依頼したのは、忠誠心を見るための罠だったのかもしれません。

 

この地区には二人の願いであれば断れない、縁もゆかりもたっぷりの人たちが大勢いたはずです。なのに、加藤清正は徳川家康から与えられた領地・肥後(今の熊本県)から2万人を引き連れて、わずか3か月で天守台の石垣を完成させてしまいました。おそらく、地元で声をかければ、大勢の人工が馳せ参じたんでしょうが、それをしてしまうと謀反を企てたとの濡れ衣を着させられるのを恐れたのかもしれません。この時、地元の人たちはどんな思いで工事をみていたのでしょうか。そんなことを想いながら石垣を鑑賞して観るのも一興かと思います。

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かずさん

かずさん

ライター自己紹介: 歴史との出会いは小学生の頃、図書館にあった日本の歴史に関する「漫画」でした。その後、ベタですがNHKの大河ドラマが好きすぎて「戦国時代」と「幕末」にはまっていきました。最近では城郭考古学者である千田先生の影響で「城」に一番の興味を持っています。先陣をきって攻めている足軽の気持ちになっての城散策が最高に楽しいです。 好きな歴史人物: 土方歳三、前田慶次、山本勘助、北条早雲、関羽雲長 etc 何か一言: 教科書で習ったイメージと事実とのあまりにも大きなギャップに驚きを隠せない今日この頃です。

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