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この記事の目次
戦国大名の事績越後上杉氏
越後の上杉謙信は、天然の良港である直江津を利用して衣料の原料となる青苧を栽培して越後上布を織り、日本海ルートで全国に広めて財源とし領内の物産流通の精密な統制管理を行い利益を上げていました。
上杉景勝の重臣の直江兼続も、農閑期の副収入として越後上布を織るように勧めていて、越後上布が特産化するのに尽力しています。
このような戦国大名の事績を見ると、戦国大名がいかに地域に密着しその土地を愛して少しでもよくなるように尽力したのかがわかります。もちろん、そうではない戦国大名もいたでしょうが、そのような大名は領民の協力を得られずに淘汰されていきました。
戦国大名は郷土愛を象徴する存在
戦国時代が終わると、勝ち残った大名は日本各地の藩主として性格を変えていきます。江戸時代の日本は封建体制であり、改易されて取り潰しにあう大名もいる事はいますが、おおむねの大名は明治維新まで存続していく事になりました。
しかし、戦国の緊張感はないので、戦国時代の大名のような熱意を持って藩政を改革した大名は少ないようです。
明治維新後の日本は中央集権制になり、各都道府県には中央から官選知事が派遣されるようになり、数年の任期で異動するようになり、奈良や平安の国司のように県民との関係が希薄になりました。戦後は知事は公選制になったものの、財政的には国に依存する都道府県が多くなり、地方独自の型破りな知事は出て来にくくなっています。
そのような現状を考えると、生きるか死ぬかの極限状態で領国の経営に心を砕かざるを得なかった、ご当地戦国大名にノスタルジーを感じて感情移入する人が多いのも分かります。戦国大名は甲子園と同じように、「おらが国」を象徴する存在として受け入れられているのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
戦国時代こそは、中央の勢力が衰えて監視と統制が行き届かなくなり、戦国大名が地域密着で国力を蓄え、隣国と戦いを繰り広げた時代でした。頻繁な戦乱を思うと、江戸時代より暮らしは不安定な気もしますが、生きるか死ぬかを共有した分は庶民の記憶に強く焼き付いたのかも知れませんね。
文:kawauso
参考文献:戦国武将の解剖図鑑 株式会社エクスナレッジ
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