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戦国大名も手を焼いた足軽とギャンブルの歴史

2020年3月10日


 

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望月東庵(麒麟がくる)

 

NHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの登場人物、望月東庵(ちづきとうあん)は無類の双六博打(すごろくばくち)好きとして描かれています。織田信長の父信秀も双六が大好きという設定でした。事実、戦国時代の戦場では足軽(ふりがな)の間でギャンブルは大流行(おおはや)りで、禁止しても禁止しても、なかなか止まらなかったようなのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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足軽にとっては合戦自体がギャンブル

羽柴秀吉(足軽時代)

 

そもそも足軽のような無名の人々にとっては、合戦に参加する事自体がギャンブルでした。足軽雑兵は、なかなか手柄を立てる機会はなく、恩賞と言えば合戦に勝利した後の乱取りと呼ばれる略奪行為(りゃくだつこうい)だけだったのです。

 

落ち武者

 

それにしても、勝った時だけの恩賞であり、敗戦などしてしまえば敵地に置き去られて、敵地住民の憎悪にさらされ、飢えと渇きで野垂れ死にする事も珍しくありません。半死半生で帰ってきても、傷の手当てもされず、ろくに働けなくなり家族に養われながら貧しい暮らしを送る未来しかありませんでした。

 

足軽b-モブ(兵士)

 

こんな状況ですから、合戦の合間、合間には酒を飲み、博打でもやらなければ精神が持たなかったのです。雇い主である戦国大名も劣悪な待遇で足軽を扱っている弱みがあり、士気が下がる事を恐れて、ギャンブルを大目にみる事がしばしばでした。

 

ギャンブルでは何を賭けたのか?

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

足軽同士のギャンブルで賭けたのは、第一が食糧、次が衣類、最後が武具でした。お金がほぼ通用しない戦場では命を繋ぐ食糧の需要が第一で、次は防寒の衣類、最後になって武器・防具だったわけですね。

 

初期の足軽は武器や防具の支給がなく、自前の装備が多かったので、博打で負けが込んでくると、所持してきた食糧を取られ、衣服を剥ぎ取られ、遂には鎧や槍まで巻き上げられて、あくる日の合戦ではフンドシに竹やり一本という足軽も少なくありませんでした。

 

ところが、博打でボロ負けした足軽は、負け分を敵から取り戻そうと目をギラギラさせ、かえって手柄を立てたそうですから、人間は分かりません。

 

武士をダメにするギャンブル

金の亡者の豊臣秀吉

 

しかし、全体としては戦場のギャンブルには弊害(へいがい)の方が多かったようです。天文(てんもん)年間に成立したと考えられる塵塚物語(ちりづかものがたり)には、こんな風に書いてあります。

 

大将から軍夫に至るまで盛んに博奕(ばくち)を打つので、山のように積み重ねた金銀、青銭(あおぜに)もあっと言う間に失われた。賭けるものがなくなると人々は合戦に必要な武具や馬具まで持ち出すので、戦場には装束の整った者は少なかった。(かぶと)だけ被って素肌の人もあり、鎧の胴だけ着て兜も太刀もないものがいた。

 

 

こんな具合で、ギャンブルのせいで武士たちは刹那的(せつなてき)になり、真面目に武芸を磨いた達人は少ないものだと塵塚物語の作者は嘆いています。

 

他人のモノまで賭ける足軽達

 

しかし、自分の所持品を賭けてすってんてんになる足軽は、まだまだ可愛いものでした。時代が応仁の乱の時代になると、足軽は持ち金を失くしても、言葉の空証文(からしょうもん)を出してまで博奕を打つようになります。

 

つまり、自分のモノでもない商家の土蔵(どぞう)などを勝手に賭けて、負けたらその土蔵を襲い金品を奪い渡すという強盗行為に手を染めるようになったのです。事実、応仁の乱では、合戦は無くても東西両軍の足軽が頻繁(ひんぱん)に強盗行為をして、京都に被害が広がっていきました。このような犯罪の温床の一つも紛れもないバクチだったのです。

 

室町幕府の禁令

 

戦国時代が進み、足軽が次第に組織化されるようになると、足軽の博打は禁止の対象になります。後期の戦国大名には、武器や防具、木綿の衣類のような戦争の必需品を自前で用意していたものがいたので、それらのレンタル品を博打のカタにされては、たまったものではないからです。

 

足軽a-モブ(兵士)

 

永正三年(1506年)七月、室町幕府は「撰銭(えりぜに)盗人(ぬすっと)、火つけ、辻切(つじぎり)喧嘩(けんか)相撲(すもう)博奕(ばくち)(よう)」の八カ条を禁止事項にしています。ところが塵塚物語は、それ以降に成立した読み物ですから、室町幕府の禁令はなかなか守られなかったようです。

 

しぶとく残るバクチの習慣

徳川家家紋

 

戦国時代が終わると、足軽は最下層の武士として封建体制の中を生きる事になります。徳川幕府は軍の士気を下げるとしてバクチを厳禁にし、それを破ると家が取り潰されるほどの厳罰が課せられましたが、どっこい、それでもバクチは消えませんでした。

 

 

江戸城無血開城の功労者である勝海舟(かつかいしゅう)は、海舟座談(かいしゅうざだん)で足軽・中間をこんな風に回想します。

 

足軽や中間は博奕が上手なものだった。博奕を許してくれるなら、給金は要らないと言ってきたものだ。普段は道中で暴れたりするが、博奕を許すと少しも左様な事はない。旅籠(はたご)で田舎の商人などを抱き込んで、ぐるみで取ってしまうのだ。だから俺は、いつでも供には博奕を許していた。

 

足軽のバクチ好きは幕末までは、連綿と続いていたようですね。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

戦国時代とギャンブルは切っても切れないものでしたし、一面では過酷な戦場の現実を忘れさせるレクリエーションでもありました。しかし、得てして、このような悪弊は、ひたすらにモラルを破壊するものであり、今から略奪する他人の金品まで賭けてしまう事になっては行き過ぎでしょうね。

 

参考文献:絵解き雑兵足軽たちの戦い

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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