浅井家は北近江(現在の滋賀県北部)に勢力を持つ戦国大名です。浅井長政の父・久政が当主の時代には、南近江(現在の滋賀県南部)の六角家や、越前(現在の福井県東部)の朝倉家と同盟を結びながら領地の内政の安定化に努めていました。
特に六角家とは主従のような関係であり、妻・小野殿を六角家の居城である観音寺城に人質として差し出すほどでした。六角家の人質として過ごしていた小野殿は、観音寺城で男の子を出産します。この男の子が後に浅井家の当主となり、姉川の戦いの主人公である浅井長政となります。
やがて後の長政が元服した時も、六角氏当主・六角義賢の一字をとって「賢政」と名乗らせたり、六角家の家臣・平井定武の娘と結婚させたりと、六角家は無理難題を強要。北近江の内政の安定化に注力したかった久政は、その無理難題に従いました。そのおかげで浅井久政は北近江の大名としての地位を確立しましたが、しかし久政の屈辱外交は、家臣の不満を高めることになりました。
1560年、ついに浅井家の家臣が久政に対してクーデターを起こし、浅井久政は家臣たちにより強制的に隠居させられ、賢政が浅井家の当主となりました。クーデターの後に最初に行ったことは、六角家との対立姿勢を明らかにすることでした。強制的に与えられた「賢」の字を捨て「新九郎」と名乗り、さらに六角家の家臣の娘である正妻を実家に返しました。
勢いはさらに止まりません。浅井「新九郎」は六角家を相手に合戦を仕掛け、見事に勝利しました。15歳の浅井「新九郎」は、家臣たちの信頼を獲得し、北近江の戦国大名として揺るぎない地盤を固めました。
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織田信長の思惑
尾張(現在の愛知県西部)の織田信長は、美濃(現在の岐阜県南部)を攻略するために、美濃の西隣りの北近江の浅井家に同盟を提案しました。浅井長政も近江の主権を握るためには、勢いのある織田家との友好関係を築いた方がいいと考えていたのでしょう。
1567年、信長は実の妹であるお市の方を浅井長政に嫁がせ、織田家と浅井家は同盟を結びました。同盟に際し、浅井「新九郎」は信長の一字を拝領し、浅井「長政」と改名しました。同盟の効果はすぐに表れ、翌年(1568年)信長は稲葉山城を攻め、斉藤家から美濃の実権を奪う事に成功しました。念願の美濃を獲得した信長の下に、越前から思いもかけない客がやって来ました。室町幕府の将軍候補である足利義昭です。
足利義昭の野望と朝倉義景
足利義昭は、三好家に殺された兄・足利義輝の遺志を継ごうと、1567年から越前の朝倉家に滞在していました。当時の越前国は米の生産地として有名であり、また中国・朝鮮との貿易の収益もあることから、雪国でありながらも、経済的に豊かなところでした。
義昭は朝倉義景の庇護の下、京都へ戻るタイミングを計っていましたが、義景はこの時、最愛の息子と妻を亡くし、メンタルが弱っていました。義昭を連れて上洛するモチベーションなんてものは全くありません。越前に来てからの約二年間、義昭は何もせずに過ごしたのでした。
上洛に乗り気ではない義景に失望した義昭は、お供の明智光秀に相談しました。
「どこに身を寄せれば良い?」
「美濃を倒して、勢いがある織田家に行けばいかがでしょうか」
こうして、義昭と光秀は信長の下に向かったのでした。
織田信長の上洛
1568年9月に織田信長は「義昭を京に戻す」という大義名分の下で、進軍を開始しました。同盟している北近江を通過し、南近江の六角家を難なく倒した信長は、翌月には京に到着。多くの戦国大名が果たしたかった「京への上洛」を容易に実現させました。
足利義昭を第15代将軍にして室町幕府を再興させた信長は、しかし天皇や将軍の「ナンバー2にならないか」という誘いを巧みに断り続けました。信長が目指していたのは「傾きかけた幕府の2番手」ではなく「天下布武」なのです。
「武力をもって天下を統一する」野望を持つ信長の戦いは始まったばかりなのでした。
朝倉氏討伐に向けて信長動く!
天下布武の向けての戦いを始めるにあたり、織田信長が最初のターゲットにしたのが越前の朝倉義景でした。天下取りを狙う信長にとって、実力者の朝倉義景は邪魔な存在でした。また大陸との貿易港である敦賀を確保できるメリットも大きかったのでしょう。
1570年4月20日、信長は徳川家康と共に琵琶湖の西岸を通過して、越前の朝倉家の城を攻め始めました。北近江の浅井長政は悩みました。織田・浅井同盟を締結したときの条件だった「朝倉家への不戦の誓い」を破る行動だったからです。
浅井家と朝倉家は昔から、南近江の六角家に対抗するために同盟を結んでいました。六角家の衰退後も、浅井家には朝倉家を頼りにする雰囲気はありました。何も相談もなく朝倉を攻めた信長に対して、浅井家の家臣は反感を持ちました。クーデターを起こすほど行動力が高い家臣たちは、隠居させた父・久政を担ぎ出しました。
父・久政は息子・長政に「昔からの付き合いである朝倉家を大事にしろ」と提言。長政は朝倉家との旧縁を重んじるべきか、義理の兄を重んじるべきかの決断を迫られました。
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