姉川の戦いとはどんな合戦?織田・徳川軍vs浅井・朝倉軍の駆け引きとは?

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姉川の戦いとはどんな合戦?(1P目)


浅井長政の決断は同盟破棄!

織田信長

 

「幕府を復興させて勢いがある」織田信長と「決断力が無く衰退気味」の朝倉義景、朝倉家を裏切ったほうが勝つ可能性は高いはずです。

 

また、過去に六角家との主従関係を破った浅井長政にとって

「昔からの因縁を破ること」

「妻との縁を切り、実家に戻すこと」

「父の発言を聞かずに行動すること」

は既に経験済みでした。

 

長政は決断をする前に、何度もシミュレーションをしたはずです。このまま朝倉家を見捨てた場合は、織田信長は早々に朝倉家を滅ぼす事に成功する。その後も義兄・信長は敵対勢力を滅ぼし、一代で天下を取るだろう。その結果、浅井長政は織田家の婚戚関係を持つ家臣としての将来が待っている。しかし、朝倉寄りの意見を持つ家臣たちの反感を買うことになり、追放や暗殺されるリスクがある事も考えたのかもしれません。

 

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

それに対して信長を裏切った場合・・・タイマンを張るように合戦をした場合には、浅井家に勝ち目は無い。裏切り者には厳しい信長のことだから、間違いなく浅井家は滅亡するだろう。しかし、それは織田家と正面から対決した場合の話。

 

迷信を恐れる織田信長

 

越前攻めで北近江に背を向けている織田軍に襲い掛かり、信長を葬る事に成功したならば、後継者争いで織田家は分裂。凡庸な朝倉義景に対しても、アドバンテージを取れるはず。家臣たちの信頼も厚くなり、浅井家は天下取りに向けて動き出せる・・・

 

「チャンスは今しかない!」

長政は義兄・信長を裏切る決断をしたのでした。


金ヶ崎の退き口

人の心が分からない織田信長

 

越前・金ヶ崎城(かながさきじょう)を攻略した織田信長に、妹・お市の方から差し入れが来ました。両端をひもで縛られた袋を開けてみると、中には小豆(あずき)が詰まっていました。この不思議な差し入れは暗号でした。ヒントは「小豆」「両端をひもで縛られた袋」の2つ。

 

まず「小豆」とは、信長とお市の方が幼少期に起こった「小豆坂の合戦(あずきざかのたたかい
)
」を暗示させたものでした。「小豆坂の合戦」は、二人の父である織田信秀(おだ のぶひで
)
が今川家相手に勝利まであと一歩というところで伏兵に退路をたたれて大敗した戦でした。

 

「今、兄上は小豆坂の合戦と同じ状況にいますよ」と伝えたかったのです。次にあえて「袋」の両端をひもで縛ることで「兄上の前と後ろの両端に敵がいますよ」とヒントを与えました。

 

ひとりぼっちで寂しい織田信長

 

自分が勝利どころか窮地に立たされている事を察知した信長は「何故、そんな大事なことを手紙で書かないのか」と思った瞬間、「手紙で書かないのではない、書けないのだ!」と察しました。伏兵の正体はお市の方の夫である浅井長政だったのです。退却を決意した信長は、自らは側近だけをつれて戦場から脱出することを決意。軍勢は退却することになりました。

 

退却戦はモチベーションも低くなる上に、背中を敵に見せる事になります。特に最前線に立つ殿軍(しんがりぐん)は壊滅必至とも言われていました。

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

十中八九死ぬと言われている殿軍。その指揮に名乗り出た武将がいました。木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、後の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)でした。藤吉郎は、怒濤の如く(どとうのごとく)攻め寄せる朝倉・浅井軍を金ヶ崎で食い止め、信長の退却を援護。壮絶な退却戦となったこの戦は「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」といわれるようになります。

 

豊臣秀吉を信頼する織田信長

 

結局、織田・徳川の軍勢は鮮やかな退却に成功し、壊滅的な被害を受けることなく、京への帰還を果たします。この働きで織田家の中での木下藤吉郎の地位は大きく上がり、以後出世街道を順調に進んでいくことになります。


姉川の合戦前夜

麒麟にまたがる織田信長

 

京に退避した信長は兵を立て直すため、すぐに岐阜城に向かいました。そして金ヶ崎の退き口から2か月後の6月19日、北近江に向けて進軍しました。休む間もなく浅井家を攻撃したのは、「裏切った義理の弟を一日も早く成敗してやりたかった」という精神的な理由だけではありません。「京と美濃をつなぐ道を復活させないと、せっかく幕府を復興した意味がなくなる」という政治的・経済的な理由が大きかったのでしょう。

 

足軽b-モブ(兵士)

 

一方、信長を抹殺するチャンスを失った浅井長政は、朝倉家と共に戦うことを決意しました。退路を断つという裏切りをした以上、腹をくくるしか無かったのです。1570年6月27日、織田・徳川軍30,000は浅井家の本拠地・小谷城の近くを流れる姉川の南岸に到着しました。小谷城に籠城していた浅井・朝倉勢20,000も姉川の北岸に到着、ついに姉川を挟んで両軍は対峙したのでした。


開戦・・・磯野員昌の姉川十一段崩し

酒井忠次

 

1570年6月28日の早朝、朝倉軍の朝倉景紀(あさくら かげとし)前波新八郎(まえばしんぱちろう )が徳川軍の酒井忠次(さかい ただつぐ
)
小笠原長忠(おがさわら ながただ)に攻め掛かり、姉川の合戦の幕が切って落とされました。

 

浅井軍も「朝倉に後れを取るな」と先鋒の磯野員昌(いその かずまさ
)
隊が織田勢に突撃。織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せました。この猛攻は「磯野員昌の姉川十一段崩し」として後世に名を残しています。

 

磯野隊はあと一歩で信長本陣というところまで迫り、信長も退却を考えたほどでした。

 

徳川家康

 

しかし、朝倉・浅井軍の陣形が伸びきっているのを見た徳川家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせ、虚を突かれた磯野隊をはじめとする朝倉・浅井軍は退却。流れは完全に織田・徳川連合に傾きました。

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