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この記事の目次
終戦・・・遠藤直経の最期
あと一歩まで押し詰めながら、浅井軍は敗走することになりました。しかし「負け戦にはなったけど、信長さえ殺せば形勢は逆転する」と考えた武将がいました。浅井家の重臣・遠藤直経です。
直経は、戦死した味方の武将の首を刀の先に突き刺して、織田軍の武将に成りすまして敵陣に入りました。本陣の信長に近づき、暗殺を謀ろうとしたのです。
「敵味方の区別がつきにくい戦場ならば、この恰好で信長の近くまでいける」
そう考えた直経でしたが、本陣の近くで織田方の顔なじみに会ってしまったのです。
「あれ、直経?お前さん、浅井家だったよね?裏切ったの?」
「・・・」
「おい!こいつ敵だぞ!!!」
こうして信長の暗殺は失敗に終わり、遠藤直経は討たれたのでした。織田・徳川軍30,000と朝倉・浅井軍20,000がぶつかった姉川の合戦は、わずか一日で織田・徳川軍の勝利に終わりました。織田・徳川軍の死者は不明、朝倉・浅井軍の死者も1,000人強でした。
姉川の合戦後
姉川の合戦で織田信長は歴史に残る大勝を獲得しましたが、勢いに乗って小谷城を攻めることはしませんでした。まず小谷城の近くの横山城を攻め、じっくりと浅井家の本拠地・小谷城を攻める準備をしていました信長でした。しかし、周辺のアンチ信長勢力が続々と挙兵してきたため、信長は浅井攻めをいったん保留せざるを得ない状況となりました。
そして1570年朝倉・浅井軍は挙兵。畿内(現在の関西地方)を駆け回っていた信長のスキを突くため、京から近い比叡山延暦寺の勢力と合流、比叡山に立てこもりました。困った信長は将軍や朝廷に働きかけ、何とか周辺のアンチ信長勢力と和睦に持ち込むことに成功。朝倉・浅井軍も比叡山を降り、帰国しました。
しかし金ヶ崎の復讐に燃える信長は、浅井家を許すことなど考えていません。翌年の1571年9月にまずは浅井家に協力した比叡山延暦寺を攻略。延暦寺の建物を残らず焼き払い、老若男女の区別なく数千人を虐殺し、壊滅させてしまいました。
そして1572年7月、信長は北近江の浅井家を攻撃。朝倉家の援護も受けた浅井長政と織田軍は半年ほどにらみ合いの状態を続けます。
その間にも甲斐(現在の山梨県)の武田信玄が西に進軍。日本一の騎馬隊を持った武田軍は三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝。東から織田勢力にプレッシャーを与えていきます。
このまま織田軍とにらみ合いを続ければ、武田軍が援護してくれると信じていた浅井長政に、その年の冬、信じられない知らせが飛び込んできます。北近江に滞在していた朝倉軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国したのです。
長政も信玄も朝倉軍の行動に抗議しましたが朝倉義景はその抗議を黙殺。さらに武田信玄も1573年2月に急死。アンチ信長包囲網は破綻したのでした。
1573年7月、信長は30,000の大軍を率いて、近江・越前に侵攻。一乗谷城の戦いで朝倉家は大敗を喫した朝倉義景は自刃し、朝倉家は滅亡。浅井家の本拠地・小谷城も織田軍に攻められ、浅井長政は父の久政と共に自害しました。浅井長政は29歳の若さでこの世を去り、浅井家は滅びたのでした。
翌年1574年の織田家の新年会には、義景・久政・長政の頭蓋骨に金粉を施した杯があったそうです。悪趣味なのかもしれませんが、死しても許さないという信長の執着心が表れているのかもしれません。
姉川の合戦が後世に語り継がれた理由
学生時代に教科書に載っていた「姉川の合戦」。しかし不思議な点が一点あります。
「何故、姉川の合戦が後世まで語り継がれているのだろう」
規模は関ケ原や小田原城攻めなどよりも小さく、長篠や桶狭間に比べると戦術のダイナミクスさに欠けます。さらにこの戦いで浅井家・朝倉家は滅亡した訳ではないのです。
「姉川の合戦」が有名な理由、実は意外なところにあるのです。
長政が自害する直前の1573年8月に、妻・お市の方が女の子を出産。その女の子は「江姫」と名付けられました。生まれてすぐに父親を亡くした江姫は、波乱の半生を過ごし1595年、徳川家康の息子である徳川秀忠と結婚しました。そして1604年に長男・徳川家光を出産。徳川家光は1623年に第三代将軍になります。将軍就任時には豊臣家も滅亡していたので、家光は「生まれながらの将軍」といわれました。
当時、家康は亡くなっていますが、戦国時代の荒々しい気風を持った武将は数多くいました。彼らからすると、家光は「戦を知らないボンボン」と評価していたのかもしれません。その評価を覆すために将軍サイドは、あるイメージ工作をしました。
「家光様に戦の経験はない。ただ母方の祖父である浅井長政は猛将だった。実際に姉川の合戦では劣勢の中で、織田信長をあと一歩のところまで追いつめた。そんな信長のピンチを救ったのが、家光様の祖父である初代将軍・家康様。姉川の合戦で活躍した浅井長政と徳川家康の血を受け継いだ家光様が戦いの場で活躍するのは間違いないでしょう」
という論法で、家光のイメージアップに努めたのです。猛将・浅井を倒した徳川家は強い!と日本全国に伝えるため、姉川の合戦はフォーカスされたのでう。
戦国史ライター いのうけんの独り言
「姉川の合戦」は知名度の割には小規模な合戦でした。しかし徳川家のイメージ向上のために、有名になったのです。「歴史」は後世の治世者によって変わっていくものかもしれませんね。
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