錦馬超と謳われる馬超ですが、実は正史を追いかけていっても、三国志演義を見ていってもその結末には何だかもの悲しさを感じる終わりを迎えるのは皆さんご存知の通りかと思います。
しかしその一方で、かつて馬超の、そして馬騰の配下だったホウ徳は最期は忠臣と謳われる華々しい最期を迎えています。今回はこの二人について、少しお話したいと思います。
この記事の目次
馬超とホウ徳について~正史から~
ホウ徳は馬超の父親の馬騰の配下で、馬超と共に行動していました。馬超が曹操に敗れてかたらずっと付き従っていましたが、張魯の下から劉備に仕えた際には道を違えています。
正史でも実はこの際になぜ二人が道を違えたかは良く分かっておらず、資料によって様々です。一般的には病気で馬超に付いていけないまま張魯の下に留まり、その後曹操の下にホウ徳は行くことになります。
馬超とホウ徳について~三国志演義から~
三国志演義を見ていくと、ホウ徳は馬超の参謀のような位置におり、活躍します。
その後張魯の下に身を寄せるのは同じですが、こちらは病気のためにそのまま張魯の下に身を寄せ、その後曹操に気に入られたこともあり、策略によって仲違いさせられ、曹操に降りました。馬超は蜀に身を寄せ、ホウ徳は曹操に受け入れられる、ある意味で二人の命運が分かれた瞬間ですね。
その後の二人
ただし、ここから二人の運命はだいぶ分かれます。というのも正史でも三国志演義でも馬超は蜀に帰順してからの活躍という活躍の記録はありません。謀反を企んでいた人物の密告をして事が起こるのを防いだことくらいでしょうか。
対してホウ徳は魏の将として、曹仁らと侯音による宛の反乱鎮圧を行ったという記述もあり、ここから樊城に駐留していたことが分かります。
馬超の最期
その後、馬超は(主に病死と言われることが多いですが)亡くなり、出番はほぼ終わります。ホウ徳の退場も同じような時期とは言え、ホウ徳は関羽との戦いで内通を疑われるも忠義を曹操に示し、関羽との一騎討ちまで行われています。
また弓矢で関羽を負傷させるのに成功するという武勇を見せつけ、水攻めでの絶望的な状況になっても抗戦し続ける豪胆さを示し、捕縛されても命乞いも降伏もせず、その首を討たれました。
馬超は蜀で不安を感じていたと思われる記録もあるので、もしかしたら既知のホウ徳の最期を知っていたかもしれません。そう思うと彼が何を感じていたか……少し胸が苦しくなる所です。
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