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この記事の目次
曹操とは逆の採用方針?
さて、曹爽政権には独特な採用方針がありました。盧毓に代わり吏部尚書となった何晏は人事の方針を曹芳に示します。何晏は徳に優れた人物を側近にして、悪人は登用しないことを提案。曹操が行っていた人材採用方針とは真逆です。
何晏は曹操に育てられたのに逆のことをしてみせたのです。おそらく時代が経過するにつれて、組織が出来上がった魏では曹操の採用方針は時代に合わないと思ったのでしょう。ちなみに、夏侯玄は軍部の人事を担当しており同様の提案をしています。残念ながら夏侯玄の改革は失敗に終わりました。
九品中世制度改革案
ところが、曹爽たちの改革にはまだ壁があります。それは九品中正制度です。九品中正制度とは司馬懿の友人である陳羣が考案したものであり、郡にいる「中正官」が評判をもとに九品からなる等級と官職を付けることです。
魏の人事は中央の尚書省よりも地方の中正官の方が権限が大きかったのでした。そのため、中正官の不正も起きていたのです。曹爽たちは問題の解決に取り組もうとしました。そこで夏侯玄は中正官の力を弱めて尚書吏部の力を強くすることを提案します。つまり地方よりも中央の力を強くするのです。
司馬懿の州大中正制度案
もちろん司馬懿も中正官の不正は知っていました。そこで彼も改革案を提出します。それは郡だけではなく、州にも中正官を置いて推薦された人物が本当に評判通りの人物か査定することを提案したのです。
これを州大中正制度と言います。郡と州の中正官がグルだったら、意味無いことですけど・・・・・・もちろん司馬懿の改革案は曹爽の弟である曹義が気付いており、「こんなの意味無いだろう!」と猛反対!司馬懿と曹爽で意見の食い違いはありましたが、九品中正制度を変えたいのは事実だったのでしょう。
クーデターと州大中正制度の施行
司馬懿はその後、病と称して10年近く隠居生活に入ります。ところが正始10年(249年)にクーデターを息子と一緒に決行。司馬懿親子は曹爽たちが行った人事を大義名分にしたのです。
曹爽やその一派は一網打尽になり、次々と処刑・罷免となります。曹爽一派を中央政界から追い出すと司馬懿が行った政策は州大中正制度でした。ここに曹爽と司馬懿の戦いは決着を迎えたのです。
三国志ライター 晃の独り言 穿つ晃
Youtubeの私の動画のコメントを見ていると「この人(晃)の話はいつも穿った見方だと感じる」というコメントを発見しました。私って読者の皆様から見たらヤバイ奴って印象があるのかな?
そもそも「穿った見方」とは何だろうか?
早速、近くにあった辞書で調べてみました。穿った見方とは・・・・・・物事の本質を捉えた見方・物事を深く掘り下げた見方悪い意味ではなくて、ほっとしました。だけど良く見たら、質問や批判は動画に多いですね。内容については少しずつ答えていきます。
※参考文献
・薛森健介「魏晋革命前夜の政界―曹爽政権と州大中正設置問題―」(『史学雑誌』95-1 1986年)
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