司馬昭の父である司馬懿の政敵 曹爽たちはどんな政策だったの?


 

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司馬懿の墓

 

正始10年(249年)に司馬懿(しばい)は政敵である曹爽(そうそう)を倒すためにクーデターを起こしました。

 

司馬師

 

後世、「高平陵の変(こうへいりょうのへん
)
」と呼ばれるものです。司馬懿の息子である司馬師(しばし)司馬昭(しばしょう)も従軍。司馬昭は当日までクーデターを行うと知らなかったそうです。ところで司馬昭の父である司馬懿が敵対した曹爽(そうそう)はどのような政策を行っていたのでしょうか?

 

魏志(魏書)_書類

 

今回は正史『三国志』をもとに、曹爽が行った政策について解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹真の子 曹爽

曹爽

 

曹爽自身は曹操(そうそう)の「族子」の1人である曹真(そうしん)の息子です。族子とは一族の子供という意味です。ただし、曹真の本当の名字は「(しん)」なので曹真の本名は秦真(しんしん)。なんだか語呂が悪い名前ですね・・・・・・

 

曹爽の側近たち

曹爽の配下にいる王渾

 

曹爽の側近には以下の人がいました。

 

(1)曹義(そうぎ)・・・・・・曹爽の弟

(2)曹訓(そうくん)・・・・・・曹爽の弟

 

何晏

 

(3)何晏(かあん)・・・・・・曹操の養子。後漢(25年~220年)の大将軍の何進(かしん)の孫。

(4)鄧颺(とうよう)・・・・・・後漢開国の功臣鄧禹(とうう)の子孫。蜀(221年~263年)の鄧芝(とうし)の親戚。

(5)丁謐(ていひつ)・・・・・・曹操最初の妻である丁夫人(ていふじん)の一族

(6)畢軌(ひつき)・・・・・・外戚(がいせき
)
(=皇帝の一族)

(7)李勝(りしょう)・・・・・・曹爽の友人であり夏侯玄(かこうげん)の部下

 

曹魏の3代に仕えた桓範(かんはん)

 

(8)桓範(かんはん)・・・・・・曹操と同郷の指導者的立場の人物

(9)夏侯玄(かこう げん
)
・・・・・・外戚。曹爽の父方の姉妹の子。

 

諸葛誕

 

(10)諸葛誕(しょかつたん)・・・・・・蜀の諸葛亮(しょかつりょう)の親戚。おそらく諸葛氏本家の人と推測される。

(11)李豊(りほう)・・・・・・外戚

 

まだいるのですが、とりあえずこれぐらいにしておきます。共通しているのは一族や名門で固めていることでした。なによりも彼らは「浮華事件(ふかじけん)」に巻き込まれていたのです。

 

浮華事件とは?

董昭

 

浮華事件とは()(220年~265年)の太和6年(232年)に董昭(とうしょう)が、「学問を本業とせず、交遊だけを仕事としている人物がいる」と告発。告発された人々は「浮華の徒」と言われました。

 

夏侯玄

 

その結果、夏侯玄・諸葛誕・李勝などは処分された。なお、魏の第2代皇帝である曹叡(そうえい)も、この処分には賛成していました。この事件は周囲の名声や口だけで全く仕事をしない、2世・3世の政治家を処分するのが目的だったのです。

 

曹爽の政策

曹芳

 

やがて曹叡が亡くなって曹芳(そうほう)が即位すると、曹爽は浮華事件で処分された人々を呼び戻しました。

 

野心がありすぎる夏侯玄

 

曹爽たちは早速、政策に取り掛かります。まずは曹爽の弟の曹義(そう ぎ)曹訓(そう くん
)
の2人で禁軍(近衛兵)を統括。さらに対蜀戦線の司令官に夏侯玄が、対呉戦線に諸葛誕と文欽(ぶんきん)を派遣します。要するに首都と地方を自派で固めたのです。

 

李豊と張緝

 

また、尚書省も何晏(かあん)鄧颺(とう よう)丁謐(てい ひつ)畢軌(ひつき)・李豊で固めました。尚書省は人事権を握っていたのです。人事を担当するのは吏部尚書という役職でした。曹爽政権発足当時、吏部尚書は盧毓(ろいく)が担当していました。彼は盧植(ろしょく)の息子であり、司馬懿と親しい関係です。当然、彼は何晏によって政権中枢から追われました。

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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