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この記事の目次
尼子詮久の大軍を寡兵で退け安芸武田氏を滅ぼす
天文2年(1533年)元就は、大内義隆を介して銭4000疋を朝廷に献上し従五位下右馬頭へ任命されており、官途を得る事で大内氏と朝廷両方の権威を得て安芸国人に対して上位に立ち、睨みを利かせている毛利元就の姿が分かります。必ずしも合戦ではなく、大内氏や朝廷、縁組により巧みに味方を増やしていくのが毛利元就の真骨頂でした。
天文8年、従属関係にあった大内氏が北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし大友氏とも和解。これを受けて元就は、安芸武田氏の居城の佐東銀山城を攻撃します、武田氏は尼子氏の援軍を受けたものの、城主武田信実は若狭へ一時逃亡しました。
翌天文9年、今度は尼子経久の後継者の尼子詮久率いる3万の大軍に本拠地の吉田郡山城を攻められますが、即席の3000名の寡兵で城に籠城。時間を稼ぐ間に、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏の協力、遅れて到着した大内氏援軍、陶隆房の活躍もあり勝利します。
これにより、尼子氏の後ろ盾を失った安芸武田氏の佐東銀山城の武田信実は孤立し再び城から出雲に逃亡、元就は佐東銀山城を攻略。安芸武田氏の傘下の川内警固衆を組織化して、後の毛利水軍の礎を築きました。
月山富田城攻めで九死に一生
天文11年から天文12年にかけて、主家の大内義隆は尼子氏の拠点の月山富田城を攻めます。毛利氏も手伝い戦で従軍しますが、途中で吉川興経が寝返り、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎた為に補給線と防衛線が寸断されます。元就自身も富田城塩屋口を攻めるものの敗れ大内軍は潰走しました。
しかも、この混乱の中で元就と隆元は殿を命じられ、尼子氏の追撃と土一揆に悩まされ、一時は父子で自刃まで考えますが、渡辺通など7名が身代わりを願い出て戦死。そのお陰で、元就と隆元は命からがら安芸に逃げ戻る事が出来ました。
最大勢力井上氏の誅滅
この頃まで毛利元就を支えたのは、執政の志道広良、元就の母方の福原広俊、そして家中の最大勢力を率いる井上元兼でした。井上氏は、毛利氏の譜代ではないものの、元就の父弘元の時代から勢力を拡大していて、元就の家督相続にも決定的な影響力を示したので元就も遠慮せざるを得ず、相当な横暴があったものの40年以上も忍耐していたようです。
しかし、安芸の支配を盤石にした元就は、遂に井上氏の排除を決断。天文19年7月に、井上元兼とその一族を族滅しました。ただし、全ての井上衆を殺したのではなく恩義がある井上衆については生かして大切にしています。直後、元就は家臣238名から毛利家への服従を誓う連署を差し出させ毛利家家中の絶対の支配権を確立します。元就は53歳になっていました。
毛利両川体制の確立
毛利元就は毛利本家を支える衛星国を組織しようと、妻の実家である吉川家と月山富田城の戦いで当主の小早川正平を失っていた沼田小早川氏に子供を送り込もうとします。吉川家は、当時の当主の吉川興経が新参の家臣団を重用し、吉川経世等一族や重鎮との対立が激しくなっていました。
反興経派は、元就に吉川国経の外孫にあたる次男元春を吉川氏の養子にしたいと申し出てきたので、興経を反興経派により強制隠居させ、熊谷氏に命じて興経とその一家を殺害して後顧の憂いを断った上で、天文19年、元春を吉川氏の本城に入れています。
一方で元就は、沼田小早川氏の後継問題にも介入、当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して、家中の分裂を誘い、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺。当主の繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川家当主で元就の実子である小早川隆景を養子に入れる事に成功しました。元就は、これにより小早川氏の水軍を手に入れ、毛利両川体制が確立したのです。
厳島の戦いで大大名に急成長
元就が、吉川家と小早川家を支配下に収め、重臣の井上元兼を誅殺して間もなく大事件が起きます。天文20年大内義隆の重臣、陶隆房が謀反を興して義隆を自害に追い込んで政権を掌握したのです。この事は事前に元就に告げられており、元就は協力の見返りに隆房が擁立した大内義長から安芸・備後の両国を安堵されます。
しかし、天文23年、元就は陶隆房と手を切り広島湾頭に出兵、その日のうちに、金山、己斐、草津、桜尾の諸城を攻略して厳島まで占領します。
そして、翌弘治元年に10月1日未明の厳島の戦いで、陶晴賢(隆房)を破り、弘治3年4月には大内義長を滅ぼし、毛利氏は安芸、備後、周防、長門の4カ国と岩見国の一部を支配する戦国大名へと成長、元就は61歳になっていました。
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