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毛利元就とはどんな人?まさに不死鳥!困難を乗り越えた老人覇者

2020年7月6日


はじめての三国志_ページネーション

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毛利元就とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



尼子詮久の大軍を寡兵で退け安芸武田氏を滅ぼす

京都御所

 

天文(てんぶん)2年(1533年)元就は、大内義隆(おおうちよしたか)を介して銭4000(ひき)を朝廷に献上し従五位下右馬頭(じゅごいげうまのかみ)へ任命されており、官途(かんと)を得る事で大内氏と朝廷両方の権威を得て安芸国人に対して上位に立ち、睨みを利かせている毛利元就の姿が分かります。必ずしも合戦ではなく、大内氏や朝廷、縁組により巧みに味方を増やしていくのが毛利元就の真骨頂(しんこっちょう)でした。

内容に納得がいかないkawauso様

 

天文8年、従属関係にあった大内氏が北九州の宿敵少弐(しょうに)氏を滅ぼし大友氏とも和解。これを受けて元就は、安芸武田氏の居城の佐東銀山城を攻撃します、武田氏は尼子氏の援軍を受けたものの、城主武田信実は若狭へ一時逃亡しました。

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

翌天文9年、今度は尼子経久の後継者の尼子詮久率いる3万の大軍に本拠地の吉田郡山城を攻められますが、即席の3000名の寡兵で城に籠城。時間を稼ぐ間に、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏の協力、遅れて到着した大内氏援軍、陶隆房(すえたかふさ)の活躍もあり勝利します。

 

これにより、尼子氏の後ろ盾を失った安芸武田氏の佐東銀山城の武田信実(たけだのぶざね)は孤立し再び城から出雲に逃亡、元就は佐東銀山城を攻略。安芸武田氏の傘下の川内警固衆(かわうちけごしゅう)を組織化して、後の毛利水軍の礎を築きました。

 

月山富田城攻めで九死に一生

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

天文11年から天文12年にかけて、主家の大内義隆は尼子氏の拠点の月山富田城を攻めます。毛利氏も手伝い戦で従軍しますが、途中で吉川興経(きっかわおきつね)が寝返り、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎた為に補給線と防衛線が寸断されます。元就自身も富田城塩屋口(とだじょうしおだにぐち)を攻めるものの敗れ大内軍は潰走(かいそう)しました。

こっぴどく敗退する徳川家康

 

しかも、この混乱の中で元就と隆元は殿を命じられ、尼子氏の追撃と土一揆に悩まされ、一時は父子で自刃まで考えますが、渡辺通など7名が身代わりを願い出て戦死。そのお陰で、元就と隆元は命からがら安芸に逃げ戻る事が出来ました。

 

最大勢力井上氏の誅滅

軍議(日本史)モブa

 

この頃まで毛利元就を支えたのは、執政(しっせい)の志道広良、元就の母方の福原広俊(ふくわらひろとし)、そして家中の最大勢力を率いる井上元兼(いのうえもとかね)でした。井上氏は、毛利氏の譜代ではないものの、元就の父弘元の時代から勢力を拡大していて、元就の家督相続にも決定的な影響力を示したので元就も遠慮せざるを得ず、相当な横暴があったものの40年以上も忍耐していたようです。

 

しかし、安芸の支配を盤石にした元就は、遂に井上氏の排除を決断。天文19年7月に、井上元兼とその一族を族滅しました。ただし、全ての井上衆を殺したのではなく恩義がある井上衆については生かして大切にしています。直後、元就は家臣238名から毛利家への服従を誓う連署を差し出させ毛利家家中の絶対の支配権を確立します。元就は53歳になっていました。

 

毛利両川体制の確立

 

毛利元就は毛利本家を支える衛星国を組織しようと、妻の実家である吉川家と月山富田城の戦いで当主の小早川正平(こばやかわまさひら)を失っていた沼田小早川氏に子供を送り込もうとします。吉川家は、当時の当主の吉川興経(きっかわおきつね)が新参の家臣団を重用し、吉川経世等一族や重鎮との対立が激しくなっていました。

 

反興経派は、元就に吉川国経の外孫(そとまご)にあたる次男元春を吉川氏の養子にしたいと申し出てきたので、興経を反興経派により強制隠居させ、熊谷氏に命じて興経とその一家を殺害して後顧(こうこ)(うれ)いを断った上で、天文19年、元春を吉川氏の本城に入れています。

 

一方で元就は、沼田小早川氏の後継問題にも介入、当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して、家中の分裂を誘い、後見役の重臣であった田坂全慶(たさかぜんけい)謀殺(ぼうさつ)。当主の繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川家当主で元就の実子である小早川隆景(こばやかわたかかげ)を養子に入れる事に成功しました。元就は、これにより小早川氏の水軍を手に入れ、毛利両川体制が確立したのです。

 

厳島の戦いで大大名に急成長

鉄甲船

 

元就が、吉川家と小早川家を支配下に収め、重臣の井上元兼を誅殺して間もなく大事件が起きます。天文20年大内義隆の重臣、陶隆房が謀反を興して義隆を自害に追い込んで政権を掌握したのです。この事は事前に元就に告げられており、元就は協力の見返りに隆房が擁立した大内義長から安芸・備後(びんご)の両国を安堵されます。

 

しかし、天文23年、元就は陶隆房と手を切り広島湾頭(ひろしまわんとう)に出兵、その日のうちに、金山(かなやま)己斐(こい)、草津、桜尾の諸城を攻略して厳島(いつくしま)まで占領します。

 

そして、翌弘治(こうじ)元年に10月1日未明の厳島の戦いで、陶晴賢(すえはるかた)(隆房)を破り、弘治3年4月には大内義長を滅ぼし、毛利氏は安芸、備後、周防(すおう)長門(ながと)の4カ国と岩見国の一部を支配する戦国大名へと成長、元就は61歳になっていました。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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