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毛利元就とはどんな人?まさに不死鳥!困難を乗り越えた老人覇者

2020年7月6日


 

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中国地方を制覇する毛利元就

 

戦国時代の日本には雨後(うご)(たけのこ)のように多くの戦国大名が出現しましたが、およそ1世紀の波瀾(はらん)を越えて存続できた家は決して多くありません。そんな中で安芸(あき)の国人領主から()い上がり中国の覇者になった毛利元就(もうりもとなり)は、一代で築いた毛利家を幕末まで継承させた稀有な人物でした。どうして、毛利元就にそんな事が出来たのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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乞食若殿と呼ばれた少年時代

三法師

 

毛利元就は、明応6年(1497年)安芸国の国人領主、毛利弘元(もうりひろもと)の次男として誕生します。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)と言いました。しかし、当時の毛利氏は弱小で父の弘元は酒に幕府と大内氏の争いに疲れて隠居を決意。嫡男の興元(おきもと)家督(かとく)を譲り松寿丸を連れて、そのまま多治比猿掛城(たじひさるかけじょう)に移住します。この頃弘元は、酒に溺れて健康を崩し、永正3年(1506年)松寿丸10歳の頃に病死。

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

兄の興元は上洛して不在だったので後ろ盾を失った松寿丸は、家臣の井上元盛(いのうえもともり)によって所領を奪われ城から追い出され、乞食若殿(こじきわかとの)とバカにされる苦しい少年時代を送ります。

 

この困窮した松寿丸の生活を支えたのが、父弘元の側室で養母であった杉大方(すぎのおおかた)でした。杉大方は立派な女性で、我が子でもない松寿丸を不憫に思い、実家に帰る事なく多治比に留まり、幼い松寿丸を必死で育てました。

 

牧(麒麟がくる)

 

杉大方が元就に与えた影響は大きく、元就は女性を尊敬し長じてからは息子達に妹の五龍局(ごりゅうのつぼね)にも均等に待遇する事、もし破ったら恨むとまで言っています。

 

元服して分家する

毛利元就

 

永正8年(1511年)杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらい松寿丸は元服。そして、多治比元就(たじひもとなり)を名乗り分家を創設して多治比殿と呼ばれるようになります。

 

このまま分家として毛利家を支える予定だった元就でしたが、永正13年兄の興元が急死します、原因はまたしても大酒による酒毒でした。毛利本家の跡目は、興元の子の幸松丸(こうまつまる)が継ぎますがまだ幼く、元就は叔父として後見人になります。

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

しかし、時代は弱肉強食の戦国時代、動揺した毛利氏に対し、佐東銀山城主(さとうぎんざんじょうしゅ)武田元繁(たけだもとしげ)吉川(きっかわ)領の有田城に侵攻しました。元就は幼い当主の代理として19歳で初陣を飾る事になります。

 

実力未知数の元就でしたが、安芸武田氏(あきたけだし)の重臣で猛将として知られた熊谷元直(くまがいもとなお)率いる軍を撃破し元直を戦死させます。武田元繁は、一部の兵力のみを有田城の包囲に残して毛利・吉川連合軍と全力で激突、戦況は武田氏に有利でしたが不運にも武田元繁は流れ矢で戦死。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

これで大混乱した武田氏は多くの戦死者を出して退却しました。運と知略に助けられ、元就は毛利家存亡の危機を切り抜けたのです。

 

はじめての戦国時代

 

幸松丸が夭折、本家毛利氏の家督を継ぐ

軍議(日本史)モブb

 

その後、元就は大内氏から尼子氏側へ鞍替え、幸松丸の後見役として、智略により戦功を積み重ねて毛利家中で信望を集めていきます。27歳の頃に元就は、吉川国経(きっかわくにつね)の娘の妙玖(みょうきゅう)を妻に迎え、長男隆元(たかもと)が誕生しています。大永3年(1523年)7月、甥の幸松丸が9歳で死去し分家の元就が志道広良(しじひろよし)をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎます。

三国志のモブ 反乱

 

しかし、分家の元就の家督相続には異論も多かった模様で、坂氏・渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久(あまごつねひさ)の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱(かめいひでつな)支援の下で動き、元就の異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を擁して対抗しますが、元就は執政志道広良等支援を受け粛清しました。こうして、元就は30歳にして毛利氏の当主の地位に就いたのです。

 

敵味方を峻別し安芸国人の代表となる

 

元就は家督問題を契機として尼子経久と敵対関係になっていき、大永5年には尼子氏と関係を断ち、再度大内氏の傘下に入ります。そして翌年には尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようとした高橋興光(たかはしおきみつ)等高橋一族を討滅(とうめつ)し、安芸から岩見の広大な領地を手に入れ、天文4年には、隣国備後の多賀山通続を攻めて降伏させます。

 

こうして、毛利氏に対抗する勢力を排除する一方で元就は、宍戸氏(ししどし)とは関係改善を図り娘を宍戸隆家に嫁がせています。それ以外にも、一時大内氏に反乱を起こして窮地においやられた天野氏や安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも友好関係を構築していき安芸国人の盟主としての地位を獲得しました。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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