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この記事の目次
家督を隆元に譲る
元就は、次男元春と三男隆景に吉川と小早川を継がせる事を決意した頃、天文15年から16年に家督を嫡男の隆元に譲ります。ですが、すぐに隠居するのではなく、隠居料とされた2500貫の知行と、各地に元就の領地を持ち、さらに元就側近の桂元忠、児玉就忠が隆元側近の赤川元保、国司元相、粟屋元親の3名と共に五奉行として元就の意向を反映できるようにしていました。
父と兄が早く亡くなり、また領地と城を家臣に奪われた元就は、家督を継いだからと言って、いきなり全てを後継者に任すのは危険だと考えていて、隆元にも隠居したら、隠居地を持って知行と軍事力を保持し後継者を監督するように説いています。
隆元急死、孫の輝元を厳しく鍛える
長らく隆元を後見していた元就ですが、大内氏を滅ぼした弘治3年頃には完全に家督を隆元に譲り隠居する事を決意します。ところが、これを聞いた隆元は驚き、元就が隠居するなら自分も幸鶴丸に家督を譲って隠居すると言って反対します。
そこで、元就は後見を続ける事にし、吉川元春と小早川隆景を毛利家の運営に参画させる事にし、ここで有名な三子教訓状を書いて兄弟が力を合わせる事を説きました。しかし、永禄6年(1563年)隆元は41歳で急死。毒殺が疑われる程の急な死でした。
元就の悲しみは深く、一時は後を追って死にたい、隠居する、出家すると言い張り悲嘆のどん底に落ちて小早川隆景を困らせますが、11歳の孫幸鶴丸を養育し、今度こそ家督を継がせて下さいと説得され、67歳で再起します。その指導ぶりは過激で、後に毛利輝元になった幸鶴丸は時に折檻も受けたと回想しており、殴るようなスパルタ指導が行われた事が窺えます。今から見れば虐待でしょうが、毛利を守る為、老い先短い元就には優しく教えるような時間は無かったのでしょう。
脳卒中に倒れるも奇跡の回復
元就の仕事は、孫の幸鶴丸の指導ばかりではありませんでした。宿敵である山陰の雄・尼子氏にも永禄6年から3万の兵力を繰り出し、元就、元春、隆景の3人が大将として詰めて、月山富田城を包囲していたのです。毛利水軍で補給を寸断し、圧倒的大軍で持久戦に徹する毛利に対し尼子氏は激しく抵抗するものの、次第に追い詰められていきました。
ところが、尼子氏降伏も間近という永禄9年、元就は70歳で脳卒中に倒れてしまいます。毛利家は一転して大ピンチ、しかし、ここでスーパードクター曲直瀬道三が元就の治療にあたり、当時の先端治療であるお灸を使い、白血球等の免疫成分を活発化させる事で数か月で元就は後遺症もなく回復、月山富田城攻めに復帰したのです。
強運と日頃の養生に守られた元就は、不死鳥のように70歳という高齢で尼子氏を降し中国八カ国を支配下に収める大大名になりおおせました。
こうして、50年の治世で安芸の小豪族から中国の覇者になるという大業を成し遂げ、孫の輝元の無事な成長を見届けた元就は元亀2年(1571年)75歳という当時としては長寿を全うして病没したのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
毛利元就の政治の特徴は、一人に権力を集中しないという所でした。本来なら乱世ですから、君主に全権力を集中するのが効率的ですが、それでは不慮の事故で君主が死んだり、君主が明らかに間違った行動に出ても止める手立てがなくなります。
そこで元就は、隠居しても独自の軍事力が持て主君を牽制できるような制度を造り、複数の重臣を置いて合議制で主君をサポートし、また外郭に吉川、小早川という衛星国を置いて、君主独裁が暴走しないように配慮したのです。
文:kawauso
参考文献:歴史文化遺産 戦国大名 山川出版社
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