黄権と言えば、先は劉璋に仕え、その後は劉備に仕え、最期は魏に降った人物。しかし彼の面白い所は、蜀でも魏でも有能、優秀と褒められていた人物という所にあります。
どうして降伏武将であるにも関わらず、彼はこんなに評価されたのか?
今回はそんな謎と共に、黄権についてお話していきたいと思います。
この記事の目次
始めは劉璋に仕えていた黄権
黄権の最初は劉璋に仕えていました。主簿という職についていて、これは陳琳や呂布と同じお役目です。現在で言う帳簿、経理や会計のお仕事ですね。
その後、劉璋が劉備を頼りにしようとした際に反対したために左遷されてしまい、広漢県長となるも、左遷されてなお劉璋のために働き続け、降伏せず劉備に対抗し続けた忠義者でもあります。
先見の明を持っていた黄権
劉璋が劉備を呼び寄せようとした時に、黄権はこれに反対しました。この時に黄権は「武将として扱えば不満を抱かせ、客人として冷遇すると一国に二人の君主がいることになる。劉備が勢力を固めようとすれば我々は滅ぼされてしまいます」と意見するも、劉璋には退けられて左遷されてしまいます。
この後は正に黄権が忠告した通りになりました。その後、劉備に仕えた黄権は漢中の大切さを劉備に進言したことで、劉備の漢中攻略が行われます。黄権は先見にとても優れた人物であったことが分かりますね。
忠義者・黄権
黄権は劉璋に仕えていた際、前述したように劉備の危険性を訴えました。しかしその忠言は劉璋に届くことはなく、黄権は左遷されてしまいます。その後、劉璋から配下たちの心は離れて劉備の側に付いていってしまいますが、黄権はそうではありませんでした。
黄権は左遷されていたにも関わらず任地を守り続け、君臣の礼を守り続けたのです。その忠義は劉備に仕えた後も、魏に降った後も高い評価を受け続けました。
黄権、魏へ・・・
夷陵の戦いの前には劉備を諫めるも受け入れられず、その後戦いの中で退路を断たれた黄権は「呉に降るくらいならば」と魏に降伏することとなります。
この事を曹丕に「陳平と韓信に倣おうとしたのか?」と嫌味……尋ねられた時には「敗軍の将が死を免れようとしただけであり、古人を手本にしたとは言えません」と自身を正当化せず、はっきりと受け答えをしました。
劉備は黄権の遺された家族を罰せずそのままの待遇で迎え、魏で「黄権の家族が殺された」という知らせが流れても黄権は劉備を信じ続けたと言います。その後、黄権は蜀に戻ることはないまま、魏で最期を迎えました。
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