長宗我部元親は土佐国の戦国大名です。背が高いものの、色白でぼんやりした性格だったので姫若子とバカにされていましたが、22歳の初陣では、優れた槍働きを見せて注目を集め、父国親の死後には屈強な半農半士の武士、一領具足を整備して四国を統一する勢いを見せました。
しかし、織田信長、豊臣秀吉という天下人とは折り合いが悪く四国統一は短期間の夢幻として消えてしまうのです。今回は土佐の鬼若子長宗我部元親を解説します。
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天文8年土佐に生まれる
長宗我部元親は、天文8年(1539年)土佐の戦国大名、長宗我部国親の長男として誕生しました。しかし、幼少の頃の元親は、長身ではあるものの大人しい性格で人に挨拶もできずにぼんやりと過ごしていたので姫若子と陰口を叩かれます。
父の国親も、家督を継がせるのを不安視する程でしたが、永禄3年5月、土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて実弟の親貞と共に初陣を迎え、数え23歳の遅咲きながら、自ら槍を持って突撃する勇猛さを見せつけました。
元親の意外な強さを知った長宗我部氏の家臣は、姫若子改め鬼若子と呼ぶようになり、人望を集めるようになりました。その年の6月、父の国親が急死、長宗我元親が家督を継いで長宗我部氏を大きくする事になります。
一領具足を整備し土佐統一へ
土佐には、国親の時代から一領具足という半農半士の体力が半端ない武士達がいました。彼ら一領具足は、田圃の端に槍を突き立ててそこに兜と鎧を置いて、合戦の呼びかけがあると、すぐに槍を片手に鎧兜をつけて飛び出していきます。
元親はこの血気盛んな一領具足を編制して勢力拡大を行い、ライバルの本山氏の当主、本山茂辰を急速に追い込んでいきました。さらに元親は、土佐国司の一条兼定を味方につけ、永禄5年(1562年)9月16日に朝倉攻めを行いますが、茂辰の子、本山親茂の奮戦で敗北します。
しかし、勢力が縮小した本山氏からは、離反者が続出、本山茂辰は朝倉城を放棄して本山城に籠城しました。同年に、元親は美濃斎藤氏から正室を迎え、土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎とも抗争しています。
本山氏は5月に勢力挽回を図って岡豊城の奪取を企てるも失敗、永禄7年4月7日には、本山を放棄し瓜生野城に籠り徹底抗戦しますが、この頃に当主の茂辰が病死、後を継いだ親茂も抗戦するも敗れて永禄11年冬に降伏し、元親は土佐中部を完全に平定しました。
主家筋の一条兼貞を下克上土佐統一
永禄10年、主家筋の一条兼貞が、毛利氏の伊予出兵で勢力を激減させると、元親は独立を図り、河野氏へ戦勝祝いを贈るなど独立性を強めていきます。永禄12年には、八流の戦いで安芸国虎を滅ぼして土佐東部を平定し、元亀2年(1571年)一条氏の家臣津野氏を滅ぼし三男の親忠を養子として送り込みました。
天正2年(1574年)2月、一条氏の内紛に介入し、一条兼定を追放して兼定の子の内政に娘を嫁がせて「大津御所」という傀儡を立て土佐のほぼ全土を制圧します。
天正3年、一条兼定が伊予南部の諸将3500人をかき集めて逆襲にくると、一時窮地に陥りますが、弟の吉良親貞の尽力で四万十川の戦いで兼定軍を撃破。これで土佐国の完全統一を達成しました。四万十川の戦いでは、元親は一領具足の制度をフル活用して、一条兼定軍の倍の7300人を集めて圧倒しています。
織田家と協力し三好氏と激闘
土佐統一後の元親は、正室が織田信長の重臣明智光秀の部将、斎藤利三の異母兄弟である事から信長と同盟を結んで近畿からの侵攻を防ぎ、その間に伊予国や阿波国、讃岐国へと侵攻していきます。
阿波や讃岐は三好氏の地盤であり、十河存保や三好康長のような三好氏の重鎮の抵抗や、弟の吉良親忠の早死の不幸も重なり当初は苦戦しますが、天正5年に三好長治が戦死すると、三好氏の凋落は顕著になっていきます。
元親は天正6年2月には、阿波白地城を攻めて大西覚養を討つ一方、有力な讃岐の国衆、香川信景に次男の親和を養子として送り込むなどしています。
その後も阿波では、十河存保と三好康俊が激しい抵抗を見せますが、元親は十河存保の本拠地の重清城を奪い十河軍に大勝。三好康俊も岩倉城に追い込んで実子を人質に差し出させて降伏させます。
伊予方面では、南予地方で軍代の久武親信が天正9年春に岡本城攻めで土居清良に敗れて戦死しますが、東予地方では、金子元宅や妻鳥友春、石川勝重を味方にして平定。しかし、中予地方の支配者の伊予守護、河野氏は毛利氏の援助を受けて抵抗したので伊予平定は長期化します。
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