豊臣秀吉について解説します。織田信長、徳川家康と並んで戦国時代を終結させた3英雄のひとり。しかし他のふたりが小さいながらも大名出身であるのに対して、秀吉は名もなき農民から天下人にまで出世しました。これは下剋上の戦国時代でも、日本の歴史上でも非常に珍しい出来事。そんな秀吉の天下統一への道を検証します。
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名もなき農民の子としての出生から信長のまえに仕えた武将
豊臣秀吉は、1537(天文6)年に尾張国愛知郡中村郷の下層民の家で誕生しました。しかし誕生日は諸説あり、武家出身ではない下層民ため、このころの秀吉の資料はあやふやです。幼名は日吉丸となっていますが、これも実際には違うとされます。そのほか母親(大政所・なか)父親・弥右衛門、養父・竹阿弥などの名前が出てきますが、実際には竹阿弥の実子という説もあるなど、良くわからないのが実情。
そんな秀吉は竹阿弥との関係が悪く、15歳のときに家を出ました。そして最初に仕えたのが駿河から三河まで勢力を伸ばしていた大名・今川氏に使える、松下之綱(加兵衛)の下。之綱は、現在の浜松にあった頭陀寺城の城主でした。
「太閤記」によると、秀吉はこの之綱に学問や武芸、兵法を教えたとあります。しかし具体的にどのくらいの期間、秀吉が仕えたのかは、はっきりとわかっていません。ただ秀吉にとっては恩人であったため、今川・徳川の家臣だった之綱を長浜城主時代に引き取り、以降秀吉直属の家臣として仕えます。最終的には1万6千石の大名に。そして秀吉と同じ1598(慶長3)年まで生き長らえました。
信長の下で出世!一夜で築城した墨俣城の真実とは
秀吉が信長に仕えたのは、1554(天文23)年頃と言われます。最初は小者からスタートしましたが、秀吉の才能が活きて各方面で活躍。それを見逃さない信長は、秀吉を引き立てて行きます。清州城の普請奉行、台所奉行を率先して引き受けた秀吉は、次々と成果を上げました。
そして信長に重用されていく秀吉は、1561(永禄4)年に、ねね(のちの北政所)と結婚。このとき、ねねは、実母の反対を押し切って結婚したと伝わります。その後、信長が美濃・斉藤氏攻略の際、秀吉は美濃にいる複数の武将に対して、誘降工作を積極的に行いました。実際に「木下藤吉郎秀吉」の名前で署名している、知行安堵状が現存しています。
そして秀吉の功績として有名な墨俣一夜城の建設。これは戦略上の要地となっていた長良川西岸の洲股(墨俣)に築城した城のことです。近くに斉藤氏が城を構えており、美濃攻略にとって厄介な存在でした。そこに秀吉が短期間でこの場所で城を築き、美濃攻略の大きな一歩につながったとされるもの。一夜で作ったというのはともかく、短期間で本当に作ったことに関しても、専門家の間で議論が分かれています。ちなみにこの頃は蜂須賀正勝らを自らの支配下におきました。
また美濃の斉藤氏滅亡時には、秀吉の参謀・軍師として手腕を発揮する竹中重治を召し抱えます。一説には重治が秀吉の才能を見抜いて志願したとも伝わります。
信長の重臣になり長浜築城まで
信長が美濃を攻略し岐阜を拠点とすると、15代将軍となる足利義昭が明智光秀と共に信長の下を訪れ、いよいよ京を目指します。義昭を将軍に据えて京を実効支配した信長は、秀吉をさらに重用。このときには重臣クラスとなり、京の政務を行います。また但馬の国の騒乱に対して2万の兵で向かい、10日間で18の城を落城させるなどの活躍を行いました。
有名なのが信長による朝倉義景追討の際に、信長を裏切った浅井軍が背後から攻め寄せたとき、殿軍を務めて危機を脱出。自らもうまく撤退に成功しました。
このような活躍を次々と見せる秀吉は、1572(元亀3)年に、信長に古くから仕える重臣の丹羽長秀、柴田勝家のようになりたいと、ふたりから名をもらい羽柴秀吉と名乗ります。その翌年、浅井氏を滅ぼす際にも秀吉が活躍。
ついに浅井氏の領地だった北近江が秀吉のものとなります。ここで秀吉は新たに長浜に築城して長浜城主になりました。秀吉は政治家としての手腕も発揮。年貢や諸役を免除したり、人材発掘を積極的に行ったりします。その結果、石田三成や旧浅井家の家臣を多く召し抱えました。
中国方面司令官として知った本能寺の変
長浜城主となった秀吉は、自らの家臣団を率いてさらなる活躍を行います。武田勝頼との長篠の戦いに出向いたり、北畠氏の旧臣がこもっていた霧山城を落城させたりしています。
その後、柴田勝家を大将とする北陸方面の従軍に向かいますが、勝家とは意見が合わず離脱。信長の怒りを買うものの、松永久秀の討伐などを行い、ここでも功績を上げます。
そして1577(天正5)年からは毛利氏が勢力を持っている中国方面の総司令官として出陣。手始めに播磨を攻略し、赤松氏らの領主を支配下にします。また但馬国の竹田城を攻略。この頃、小寺孝高が姫路城本丸を秀吉に提供します。この人物は後の黒田官兵衛。秀吉の第2の参謀として側に仕えました。
秀吉は姫路を拠点として、備前・美作を支配していた宇喜多直家を服従させます。その後荒木村重の反旗などがありましたが、秀吉は三木城や有子山城、鳥取城などを次々と攻めを滅ぼし、備中まで進出。毛利の武将清水宗治と対峙します。しかしこのときに大きな事件が発生。
1582(天正10)年6月に信長が京都の本能寺で、光秀に討たれる本能寺の変が起こりました。
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