こちらは3ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
小田原を屈服させ天下統一の達成
1587(天正15)年に九州を平定した秀吉は、同時に京都の大内裏跡に聚楽第と呼ばれる邸宅を建てました。天皇の補佐役である関白として秀吉は1588(天正16)年4月に後陽成天皇を迎えて饗応しています。そして家康や信雄らに忠誠を誓わせ、また中国の毛利元就も完全に臣従させます。
そして秀吉が残した場所は、東北と関東でした。東北には若き伊達政宗が暴れており、また関東には北条氏が独立した勢力として力を保っています。秀吉は命令を無視し続ける政宗の制圧も考えましたが、結局小田原の北条を攻めることを決めました。1589(天正17)年に北条氏の家臣が、秀吉に従っていた真田の家臣の城を攻撃したことをきっかけに小田原討伐軍を準備。天下統一最後の戦いが始まりました。
北条早雲以来5代に渡り関東を支配、武田信玄や今川義元といった大大名と対等の関係を気付いていた北条氏でしたが、秀吉率いる大軍勢の前にはなすすべなく包囲されてしまいます。しばらく様子をうかがっていた伊達政宗も、遅参という形で秀吉側に従いました。3カ月間の籠城の後、小田原は陥落。1590(天正18)年ついに秀吉は天下を統一しました。北条氏は滅ぼされ、跡地には家康が居封。最後に従った伊達政宗は所領の一部が没収されました。
さらなる野望!2度の朝鮮出兵
天下を統一した秀吉でしたが、さらなる野望を考えていました。それは唐入りと呼ばれる、大陸にある中国の明を攻撃することです。弟秀長・実子の鶴松が病死したため、1591(天正19)年に秀次に関白職を譲ります。そして自らは唐入りのため北九州に名護屋城を建築。対馬を支配していた宗氏を通じて朝鮮半島経由で明を攻めることにしました。
しかし李氏朝鮮は、秀吉が朝鮮半島に進軍することを断固として拒否。そこで手始めに朝鮮出兵を決意し、日本軍を準備します。その規模は統監軍10万、出征軍15万の総勢。そして1592年から翌3年にかけて出撃しました。文禄の役と呼ばれる攻撃で、朝鮮半島に進撃。序盤戦は戦国時代を生き抜いた武将たちの戦闘力の高さもあり、日本軍が連戦連勝してきます。しかし明側の援軍を得た朝鮮軍が反撃。このころちょうど中国東北地域に勢力を持っていた、アイシン国のヌルハチからの支援の話もありましたが、明と朝鮮側が拒否します。
やがて一進一退の攻防の後、一旦和睦。明国は秀吉を「日本国王」として冊封することを考えていましたが、納得できない秀吉は再度軍を送ることを決めます。2度目の慶長の役は、1597(慶長2)年からスタートします。しかしこの戦いは病に伏した秀吉が翌年の死によって中止されました。またこの影響でヌルハチの勢力はさらに大きくなり、後に明が滅び、清に変わるきっかけともなります。
天下人秀吉の最期とその後
朝鮮出兵の頃から、それまで抜群の手腕を発揮していた秀吉に衰えが見え始めます。鶴松の代わりに後継者として関白の地位を譲った甥の秀次ですが、新たに秀頼が生まれます。そのことで秀次が怯えはじめ、また秀吉は秀次に謀反の疑いがあるという理由で切腹を命じました。秀吉の代わりに住んでいた聚楽第も破壊されます。
そして慶長の役が始まるも秀吉はすでに力尽きていました。1598(慶長3)年の醍醐の花見を盛大に行って間もなく、秀頼を五大老・五奉行に委ね8月18日にその生涯を閉じます。秀吉の死後は、家康が不穏な動きを見せ始めました。秀頼の後見人として一時的に天下の地位にあった前田利家と対立。そして和睦するも、直後に利家も没してしまいます。
ついに家康と三成による対立激化により、1600(慶長5)年に関ヶ原の合戦が起こります。この戦いに勝利した家康が、豊臣政権に代り実権を握りました。1603(慶長8)年に征夷大将軍に任命され江戸幕府が成立。家康の時代になります。豊臣家は秀頼と共に摂津・河内・和泉を治める65万石の大名に成り下がってしまいました。ところが10年ほど後に家康は、言いがかりをつけて豊臣家を攻撃。大坂冬の陣と夏の陣を通じて、1615(慶長20)年に豊臣家を滅ぼします。そして徳川幕府の体制を固めました。
関連記事:関ヶ原の勝利後、家康が14年も豊臣家を滅ぼさなかった理由
関連記事:関ヶ原の戦いでも石田三成に加勢した大谷吉継の魅力!親友の直言に三成も涙目
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
豊臣秀吉の出世物語は、当時は関白が引退後に名乗る「太閤」という言葉が、やがて秀吉の代名詞となりました。そのため企業で成功をおさめた人などを「今太閤」と呼ぶことがあります。特に大坂城を建築した大阪では秀吉に対する「出世運」を崇拝する経営者も多いです。たとえ生まれたときの身分が低く貧しくとも、本人の努力次第では天下を取れる可能性がある。彼はそれを教えてくれたのかもしれません。
参考文献
藤木久志「織田・豊臣政権」小学館
小和田哲男「豊臣秀吉」中央公論社
村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」駒沢史学80号
佐賀県立名護屋城博物館編「秀吉と文禄・慶長の役」
谷口克広「信長・秀吉と家臣たち」 学研パブリッシング
関連記事:【清須会議で担がれた三法師】清須会議で秀吉にだっこされていたあの赤ちゃんはその後どうなった?