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この記事の目次
浅井朝倉氏と志賀の陣で対陣し和睦に持ち込む
その後、柴田勝家は野田城・福島城の戦いで三好三人衆と戦いますが、その途中に石山本願寺が突如織田軍に攻め掛かります。さらに、織田軍の手が緩んだ隙を突いて、浅井・朝倉連合軍3万人が山科・醍醐を焼きつつ京都へと進軍を開始しました。
言継卿記によると、当初、勝家と明智光秀が信長の命令で京都に呼び戻されますが、勝家は、それでは足りないと信長に進言して、結局は全軍で野田・福島から退却して強行軍で京都に戻り志賀の陣となります。
その後、信長は足利義昭に依頼して、朝廷工作で浅井・朝倉と和睦しますが、兵力が柴田勝家と明智光秀の軍勢だけでは、にらみ合いを維持できなかった可能性もあり、勝家の状況判断力が光りました。
元亀3年2月、信長と対立した足利義昭が石山と今堅田の砦に兵を入れると、勝家は他の4武将と攻撃してこれを陥落させます。
その後、信長と共に義昭を威嚇する為に上京に放火、これに恐れた義昭が信長と一時和睦した際の起請文には林秀貞、佐久間信盛、滝川一益、美濃三人衆と共に柴田勝家の名前もあり、勝家が織田家の重臣の地位にあった事が分かります。
同年7月、義昭は和睦を反故にして槙島城に立て籠もり、義昭の側近の三淵藤英は二条城に籠城しますが、勝家は藤英を説得して二条城を開城させました。その後、信長が7万の軍勢で槙島城を攻撃した時には、勝家も加わっています。
織田家の総力を挙げた天正元年(1573年)の一乗谷の戦い、その後北近江の小谷城の戦いでも勝家は参加して、両家を滅亡させました。
因縁の長島一向一揆討伐
元亀2年(1571年)2月、柴田勝家は石山本願寺と呼応した長島一向一揆を鎮圧に向かいます。しかし、長島一向一揆は、これまでのゾンビのような物量で押しまくる戦法を使わず、村々に火をつけて撤退する織田軍を撤退途中の隘路で、弓兵と鉄砲で待ち受ける方法を採用します。
信長本隊と佐久間信盛隊は、無事退却できましたが、殿を務めた柴田勝家が攻撃を受けて負傷、かわって殿を務めた氏家卜全とその家臣数名が討ち死にしました。同年9月には、勝家は比叡山焼き討ちに参加して殺戮戦に加わります。
天正元年9月、勝家は2度目の長島攻めに参加、桑名の西別所城、酒井城を落としますが、長島は大湊の船が十分確保できず退却する事になります。
そして、2年前の勝家負傷と同所で殿の林通政隊が一揆勢に襲われ林と多数が戦死しました。天正2年7月、勝家は、3度目の最終戦の長島攻めに参加、今度は織田軍の総員7万の大軍と九鬼水軍を動員し、水路を抑え兵糧攻めで締め上げる作戦を取ります。
苦しくなった一揆勢が助命を約束に開城して船で逃げ出そうとした所、信長は許さずに鉄砲を射かけて殺戮、この時に指導者の顕忍や下間頼旦が殺害されます。この時の指揮は勝家が取っていたようです。逆上した一揆勢は、800人が城から出て、裸で抜刀して織田方の守りの薄い箇所に斬り込みました。
この逆襲で、信長の庶兄、織田信広や弟の織田秀成など多くの織田一族が戦死、最大で1,000人ほどの被害が出たようです。失態を受けた信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲んで火を掛け城中2万の男女を焼死させました。
長島一向一揆殲滅戦は、読むからに残酷な話ですが、信長や勝家にこれだけ残虐な方法を取らせたのは、長島一向一揆が強く、織田軍に余裕がなかった事を裏付けています。
越前49万石の大名になる
天正元年の朝倉氏滅亡後、信長は越前国に前波吉継を送り込んで守護にしますが、同じく朝倉氏の旧臣の富田長繁はそれに反発し土一揆を起こして前波を討ちます。
しかし、その富田も一揆勢を抑えきれず、加賀国の一向一揆の指導者七里頼周を指導者に新たに一揆を起こして富田に襲い掛かり、富田は家臣に殺害されました。
こうして一揆持ちの国になった越前ですが、信長は総力を挙げて攻め掛かり一向一揆を殲滅します。その後、信長は越前国掟9条を柴田勝家に与えた上で越前国八郡49万石を与え、北ノ庄城を本拠地にしました。
この越前国掟9条は、過酷な政治を誡め、法律を遵守し、国人衆は丁重に扱い、信長の命令には絶対服従すれば、道理が通る言い分は聞こうという内容で柴田勝家のような実力者に加賀のような大国を任す上での注意書きのようなものですが、勝家はこの掟を最期まで守ったそうです。
加賀平定、柴田勝家織田家筆頭となる
織田信長は、当初、簗田広正に切り取り次第の形で加賀一国の支配権を与えていましたが、信長が加賀から戻るとすぐに一揆が起こり小身の簗田は抑えきれませんでした。
そこで信長は、簗田を更迭、天正4年(1576年)柴田勝家を北陸方面軍司令官に任命し、前田利家、佐々成政、不破光治の与力をつけ、90年間一揆持ちだった加賀の平定を任せます。
天正5年(1577年)7月、越後の上杉謙信が加賀国に侵攻してきます。この時、羽柴秀吉が与力として勝家の陣に来ていましたが、軍議で意見が食い違い衝突、信長に無断で戦線を離脱しました。
柴田勝家は七尾城の救援に向かいますが、間に合わずに城が陥落したので、周辺の拠点に放火しつつ退却しますが、9月23日に手取川で上杉軍の襲撃を受けます。謙信の書状には、織田方を1000人ばかり討ち取ったと記載があるものの、他の史料にはなく、実際には小競り合いだったかも知れません。
天正8年(1580年)3月、織田家と本願寺に講和が結ばれた途端、北陸方面は活発化、柴田勝家は一向一揆の司令塔金沢御堂を滅ぼし軍勢を北加賀・越中境まで進め一向一揆を制圧、同年11月加賀を平定、勝家の勢いは止まらず能登国・越中国にも進出します。
また、同じ頃に同期の佐久間信盛が信長に折檻状を叩きつけられ失脚したため、勝家は織田家の筆頭家老に上り詰めます。
本能寺の変後、光秀討伐の手柄を秀吉に奪われる
順風満帆な柴田勝家の運命は、本能寺の変で大きく変わります。その頃、勝家は越中魚津城を陥落させ、松倉城を包囲している最中でした。信長横死の知らせは6月3日には届き、柴田勝家は急いで逆賊明智光秀を討ち主君の仇を討とうと北ノ庄城に撤退しますが、そこから出陣に手間取り、光秀は中国大返しを成し遂げた羽柴秀吉に討たれてしまいました。
本能寺の変から20日余り経過した6月27日、信長亡き後の織田家の後継者を決める会議が清須城で開かれます、世に言う清須会議です。参加者は、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興、そして柴田勝家でした。
当初勝家は、織田家の当主には山崎の合戦で名目上の総司令官になった信長の三男織田信孝が就任するものと考えていましたし、実際、そのような噂もありました。
ところが、実質的に光秀を討った功労者である秀吉は成人した信孝ではコントロールできないとみて、清須会議に信孝を出席させず、織田家の後継者は討ち死にした信長の嫡男で織田家当主だった織田信忠の子の三法師と決めてしまいます。
その上で、秀吉は信孝に信忠が支配していた美濃一国と岐阜城を与え、三法師の後見人を務める事になります。信孝は不満がないわけではありませんが、三法師の後見であれば、実質織田家を動かせると見たのか清須会議の結果を受け入れました。さらに柴田勝家は、信長の妹お市の方を正室に迎え、名実共に織田家の一門となります。
秀吉は4人の宿老で誓紙を取り交わし、今後織田家は合議制でやっていくとして、何とか清須会議を収めました。
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