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柴田勝家とはどんな人?信長の敵から織田家筆頭への逆転人生

2020年7月12日


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柴田勝家とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秀吉の独断専行に信孝と柴田勝家が結託

豊臣秀吉が調子に乗っているので内心キレてる柴田勝家

 

しかし、秀吉は清須会議の合意など守るつもりはなく、次々に約束を反故にしていきます。特に秀吉が柴田勝家や織田信孝、さらに当主と決めた三法師まで排除し、大徳寺で自分を喪主(もしゅ)として信長の供養(くよう)を大々的に行ったのは、勝家の怒りに火をつけました。

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

勝家「おのれ!泥棒猿(どろぼうざる)め、もはや自分が天下人のつもりか!」

 

一方で、名目だけとはいえ、明智光秀討伐に参加した織田信孝も怒り心頭、自分に三法師を押し付けて、権力だけは持って行った秀吉に憎悪を燃やします。実は、信孝の烏帽子親(えぼしおや)は勝家であり、二人は元々親しい間柄にあったのです。

 

不穏な空気を察知した秀吉は、信長の次男で、本能寺の変後には何の手柄も立てられなかった織田信雄を自軍に引き入れ正統性の補強を図ります。信長亡き後の二大巨頭、柴田勝家と羽柴秀吉は、こうして激突の時を迎えました。

 

賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗北し自決

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

天正10年12月、羽柴秀吉は柴田勝家の甥、柴田勝豊(しばたかつとよ)が守る長浜城を包囲、勝豊を降伏させます。次には、美濃の織田信孝を攻撃、信孝は防ぎきれずに三法師を秀吉に渡して和睦しました。

 

しかし、翌天正11年4月に和睦した織田信孝が再度挙兵、それを聞いた秀吉は大垣に引き返しますが、その隙を突いて勝家軍が動き、江北余呉湖畔(こうほくよごこはん)賤ヶ岳(しずがだけ)の地で秀吉軍と激突しました。

鉄甲船

 

当初は、柴田勝家の甥の佐久間盛政(さくまもりまさ)が秀吉不在の時を狙い、賤ヶ岳の本陣を奪う勢いでしたが、途中、丹羽長秀が琵琶湖を渡っていたのを引き返して海津に上陸。後退を開始していた賤ヶ岳砦の城主桑山重晴(くわやましげはる)と合流して軍を増強。砦を攻める佐久間盛政に抵抗したので、盛政は賤ヶ岳砦を落とせずに日没を迎えます。

豊臣秀吉の勢力に上手く乗り換える前田利家

 

翌日には、秀吉が美濃大返しを仕掛けて、佐久間盛政に攻撃を仕掛け、これを救わんとした柴田勝家の軍勢と全面対決になりますが、勝家軍として参加していた前田利家の軍勢が突如退却。大幅に兵力を減らした勝家の本隊は、秀吉軍の総攻撃を受けて崩壊、、味方にも離反者が続出して、戦いは秀吉軍の逆転勝利になります。

鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス(豊臣秀吉)

 

柴田勝家は、越前へ退却し北ノ庄城に火を放ち、結婚したばかりのお(いち)の方とともに自害します。享年(きょうねん)61歳でした。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

信長の死後、己が天下人になろうと野心を隠さない羽柴秀吉に対し、柴田勝家の動きは、どこか危機意識がなくぼんやりとして見えます。

 

そこから柴田勝家は秀吉に対抗できる器ではないと評価を下すのは簡単ですが、そもそも、織田家の将来像を宿老合議でよいと考えていた忠臣、柴田勝家には、秀吉の向こうを張って、天下を狙おうという意識が希薄でした。

 

だから野心逞しい家康とは異なり、秀吉のペースに引きずられ自害する運命になってしまったのでしょう。良くも悪くも勝家は織田家の番犬であり、番犬を率いる人では無かったのです。

 

参考文献:歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る織田軍団の全貌 洋泉社

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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