こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
政治に才能を見せた皇帝ネロ
ネロは哲人セネカを排除した後も善政とは無縁ではありませんでした。特にローマ大火後の被災者救済や迅速な政策実行によるローマ再建はネロに批判的な同時代の歴史家も評価しています。また、大火前には木造建築が多かったローマでローマンコンクリートを普及させた点でも都市の堅牢化に一役買っていました。
それ以外にも貨幣改鋳を行い、その後も150年受け継がれるローマ帝国の経済政策の1つになったり、ブリタンニア(イギリス)女王ブーディカの大反乱を迅速に鎮圧したり、ローマ帝国最大の強敵だったパルティアなどの東方諸国との外交政策も、アジア属州総督グナエウス・ドミティウス・コルブロの奮闘もあり、50年以上の泰平を築いたりしています。
ローマ大火については、ネロの仕業とされているのでマッチポンプの疑いもありますが、、それ以外については、無能な暴君には出来ない適切で迅速な対応であり、ネロがただの暴君ではなかった証拠と言えます。しかし、ネロは皇帝個人としては明らかに問題がありました。
歌手の真似事をしたり、オリンピックで不正をしたり部下や親族の美貌の人物を男女問わずに奪い取り、オモチャにして飽きたら殺害したりしています。
その為に反乱を首謀した人々も、ネロの政治手腕よりも人格面の横暴さに反発した部分が多いようです。逆に言うとネロと直接関係がない市民にとっては、ネロは有能な皇帝でもあったのです。
ネロのジャ〇アンリサイタル
ネロは皇帝でありながら当時賤業として卑しまれていた芸人になりたい願望がありました。特に歌が大好きで数千人の群衆を集めてワンマンコンサートを開くのが趣味だったそうです。
まるで、某青猫アニメのジ〇イアンみたいですが、不幸にもネロはジャイ〇ン同様に歌の才能には恵まれていませんでした。
ある時ネロは、ポンペイウス劇場で無謀にも独唱会を開いたものの、余りの退屈さに逃げる観客が続出します。しかし、薄々己の歌の下手さを知っていたネロは出入り口に人員を配置して観客を逃げられないようにしていました。
それでも観衆は塀をよじのぼって逃げたり、死んだふりをして棺桶で運ばれたり、産気づいて出産した女性も数名いたというので、どれだけ下手なんだよというお話。後の皇帝で、ネロの親友ウェスパシアヌスは、余りに退屈な独唱会に思わず寝てしまい、ネロに絶交されてしまったそうです。
これだけで済むなら皇帝の自己満足で済む微笑ましい話ですが、ネロは自分だけに飽き足らず、元老院議員や騎士にも強制的に芸をやらせて笑っていました。元々芸人を卑しんでいる上流階級の人々の屈辱感は凄まじく反ネロ感情は拡散していきます。
ネロの最期
西暦68年3月、ガリア・ルグドゥネンシスの属州総督、ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発。これにネロに妻のポッパエアを奪われたルシタニア総督のオトやヒスパニア・タラコネンシスの総督ガルバが同調します。しかし、ウィンデクスの反乱は高地ゲルマニア軍により4月には鎮圧され、ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受けて逃亡しました。
ところがその後、戦争によりローマで穀物価格が高騰して庶民生活を直撃。さらに、エジプトからの穀物輸送船が食糧ではなく宮廷剣闘士用の闘技場の砂を運搬してきた事件が報じられ、ネロは私利私欲に耽り経済を顧みないと、ローマ市民の反感を受け支持率が低下します。
これをチャンスと捉えた元老院は、ネロに「国家の敵」決議をし逆にガルバを皇帝に擁立します。ネロは逃亡し愛人であるローマ郊外の解放奴隷パオラの別荘に隠れますが、自分を殺しに来る騎馬兵が近づく音が聞こえるに及んで観念し喉を剣で貫き自殺します。30歳の若さでした。
その際、ネロは自分では死にきれず奴隷スポルスに喉を切らせたとも伝わります。
庶民に人気があったネロ
ネロは自殺しましたが、意外にも彼の墓にはローマ市民からの供物が絶えなかったそうです。その理由は皇帝に即位したガルバがネロ派の軍や都市と敵対して粛清を続け、同時にネロの放蕩で破綻していた帝国財政再建を図った事でした。
ガルバは新皇帝即位の慣例だった市民への金貨配りを無駄遣いと軽蔑して行なわなかったのです。財政再建の視点から見れば、それは合理的な措置だったのでしょうが、ガルバのケチ臭さはローマ市民の不興を買い、まだネロの治世が良かったという感情を産み出し、墓に供物が絶えない状況を産んだのでした。
ガルバは結局、後継者問題で同僚のオトに殺害され、その治世は1年に満ちませんでした。
次にローマ皇帝として即位したオトは、ネロ派の復職を認めネロの銅像やネロの大宮殿、ドムス・アウレアの建設再開を許可。さらにネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑するなどして民衆の人気を買う事に腐心します。
こうして、ネロ礼賛が皇帝の支持率上昇に繋がるようになり、オトの次の皇帝ウィテリウスはネロの慰霊祭を催してローマ市民を喜ばせました。やがてネロは神格化され、偽ネロを名乗る人物が出現するなど、さまざまな伝説を産み出すのです。
世界史ライターkawausoの独り言
帝政ローマはパンとサーカスという言葉に代表されます。共和制ローマの時代には多くの自作農が自ら戦士となりローマを防衛する愛国心で維持されましたが、帝政期には版図が拡大して富の一極集中が起き、自作農が没落して土地は一部の大地主に集まり、大多数の庶民は土地を持たずローマのような大都市で日雇い仕事や商工業に従事します。
帝政期のローマ市民は、政治を丸投げする代わりに皇帝にパンとサーカスを要求します。
適度な娯楽と食い扶持の保障さえすれば、誰が皇帝でも文句はないのです。
ネロは、それに応えて気前よくお金を撒き芸術を新興していたので人格面で問題があろうと市民人気は高かったのです。ネロを倒したガルバが、パンとサーカスを理解できず、すぐに権力を失った所を見るとネロの人気取りがいかに巧みだったかが分かりますね。
関連記事:ローマは塩がないと成らずローマ帝国と塩
関連記事:将軍ハンニバルとはどんな人?韓信と同時代にローマを震撼させた漫画みたいなスゴイ奴