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中国大返しとは?秀吉は後半走っていないってホント!

2020年7月21日


 

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部下を競争させる織田信長

 

羽柴秀吉(はしばひでよし)に天下を獲らせた中国大返し、備中高松(びっちゅうたかまつ)から京都の山崎までおよそ200キロを2万の兵士と駆け抜けた秀吉は準備不足の明智光秀の軍勢を蹴散らし、信長死後の天下獲りレースを勝ち抜く事になります。しかし、秀吉の中国大返し全道程で見ると大して早くなかったって知っていましたか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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1日20キロの行軍速度は大して速くない

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

日本屈指の強行軍であり、奇跡のUターンとして有名な羽柴秀吉の中国大返しですが、200キロの道のりを10日間で走破したというのは大して速くないそうです。

 

というのも、南北朝時代の南朝派の将軍である北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、奥州から遠江(とおとうみ)までの600キロを16日間で踏破し、1日38キロで駆け抜けた計算で、これなら単純計算でも羽柴秀吉の2倍の速度で進んでいる計算になり、日本最速は北畠顕家という話になります。

 

では、どうして、世間的には秀吉の中国大返しの方が有名なのでしょうか?時系列を追って解説してみましょう。

 

本能寺の変まで

本能寺の変で「是非に及ばず」と切り替えの早い織田信長b

 

織田信長から、中国平定を命じられた中国方面軍団長の羽柴秀吉は、天正10年(1582年)3月播磨姫路城より備前に入り、3月17日に常山城を攻め、4月中旬には、備前岡山城の宇喜多秀家(うきたひでいえ)の軍勢と合流し、3万の軍勢で備中日畑城、備中冠山城、備中庭瀬城、備中加茂城を陥落させていきました。

安土城 織田信長が作らせた城

 

備中高松城の城主、清水宗治(しみずむねはる)は、織田・毛利両陣営から引き抜きを受けましたが、結局毛利氏に残留します。秀吉は、ここで、僅か3000の高松城を攻めるために水攻めを決断、さらに、信長の機嫌取りか、中国攻めへの信長の出座を依頼しました。しかし、信長は自身が中国攻めに赴く前に、明智光秀を援軍として出し、秀吉にも高松城攻めに集中するように命じます。

 

非常に極悪な表情をしている豊臣秀吉

 

皮肉にも、秀吉が信長の出陣を求めた事が、代理として明智光秀を援軍に送ろうとする信長の決断として現れ、本能寺の変の基礎が造られる事になりました。

 

麒麟がくる

 

本能寺の変勃発

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀

 

織田信長が明智光秀に討たれた凶報を秀吉が知ったのは、諸説あるものの6月3日夜から4日の未明にかけてのようです。秀吉は信長の死を知ると、備前と備中への道を遮断、緘口令(かんこうれい)を敷き、信長の死が毛利軍に伝わらないようにした上で、毛利の外交僧、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び出して早急に和議を結びます。

 

そして、6月4日の10時頃には清水宗治の切腹がおこなわれました。

切腹する織田彦五郎(織田信友)

 

秀吉は、6月4日と5日は毛利軍の様子を探り、毛利が撤兵したのを待ち、6月6日の午後には撤退を開始しました。

 

毛利側では小早川隆景が追撃に反対

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

一方で、毛利サイドが「本能寺の変」を知ったのは6月5日でした。これを知った吉川元春は、秀吉軍の追撃を提案しますが、小早川隆景は和議を結んだ以上は信義を守るべしと主張します。

 

結局、当主の毛利輝元は小早川隆景に同意したので、秀吉は全力で撤退する事が可能になりました。秀吉は小早川隆景に恩義を感じ、その後、天下人になってからは隆景を随分と寵愛するようになったそうです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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