羽柴秀吉に天下を獲らせた中国大返し、備中高松から京都の山崎までおよそ200キロを2万の兵士と駆け抜けた秀吉は準備不足の明智光秀の軍勢を蹴散らし、信長死後の天下獲りレースを勝ち抜く事になります。しかし、秀吉の中国大返し全道程で見ると大して早くなかったって知っていましたか?
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1日20キロの行軍速度は大して速くない
日本屈指の強行軍であり、奇跡のUターンとして有名な羽柴秀吉の中国大返しですが、200キロの道のりを10日間で走破したというのは大して速くないそうです。
というのも、南北朝時代の南朝派の将軍である北畠顕家は、奥州から遠江までの600キロを16日間で踏破し、1日38キロで駆け抜けた計算で、これなら単純計算でも羽柴秀吉の2倍の速度で進んでいる計算になり、日本最速は北畠顕家という話になります。
では、どうして、世間的には秀吉の中国大返しの方が有名なのでしょうか?時系列を追って解説してみましょう。
本能寺の変まで
織田信長から、中国平定を命じられた中国方面軍団長の羽柴秀吉は、天正10年(1582年)3月播磨姫路城より備前に入り、3月17日に常山城を攻め、4月中旬には、備前岡山城の宇喜多秀家の軍勢と合流し、3万の軍勢で備中日畑城、備中冠山城、備中庭瀬城、備中加茂城を陥落させていきました。
備中高松城の城主、清水宗治は、織田・毛利両陣営から引き抜きを受けましたが、結局毛利氏に残留します。秀吉は、ここで、僅か3000の高松城を攻めるために水攻めを決断、さらに、信長の機嫌取りか、中国攻めへの信長の出座を依頼しました。しかし、信長は自身が中国攻めに赴く前に、明智光秀を援軍として出し、秀吉にも高松城攻めに集中するように命じます。
皮肉にも、秀吉が信長の出陣を求めた事が、代理として明智光秀を援軍に送ろうとする信長の決断として現れ、本能寺の変の基礎が造られる事になりました。
本能寺の変勃発
織田信長が明智光秀に討たれた凶報を秀吉が知ったのは、諸説あるものの6月3日夜から4日の未明にかけてのようです。秀吉は信長の死を知ると、備前と備中への道を遮断、緘口令を敷き、信長の死が毛利軍に伝わらないようにした上で、毛利の外交僧、安国寺恵瓊を呼び出して早急に和議を結びます。
そして、6月4日の10時頃には清水宗治の切腹がおこなわれました。
秀吉は、6月4日と5日は毛利軍の様子を探り、毛利が撤兵したのを待ち、6月6日の午後には撤退を開始しました。
毛利側では小早川隆景が追撃に反対
一方で、毛利サイドが「本能寺の変」を知ったのは6月5日でした。これを知った吉川元春は、秀吉軍の追撃を提案しますが、小早川隆景は和議を結んだ以上は信義を守るべしと主張します。
結局、当主の毛利輝元は小早川隆景に同意したので、秀吉は全力で撤退する事が可能になりました。秀吉は小早川隆景に恩義を感じ、その後、天下人になってからは隆景を随分と寵愛するようになったそうです。
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