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秀吉の中国大返しの真骨頂は高松城から姫路城まで!
秀吉が備中高松城から、秀吉の居城がある姫路城までに、どんなルートを辿ったのかは諸説あり、この区間には、宇喜多家の居城である沼城があり、秀吉が休憩の為に立ち寄ったという説と裏切りを警戒して別ルートを歩んでいた説があるようです。
この高松から姫路までの区間90キロを秀吉は36時間から48時間の間に駆け抜けたと言われていて、日にちで換算すると1日45キロになり、北畠顕家の強行軍の速度を5キロ越えてしまうのです。
しかも、この2日間は非常な悪天候で、それでも秀吉軍がマラソンなみの距離を走っていたのは、確かに驚異的な事だと言えます。全道程ではありませんが、90キロの区間で考えれば、羽柴秀吉は紛れもなく戦国日本最速の男であったと言えるでしょう。
秀吉は姫路についた時点から謀略戦を展開していた
姫路についた秀吉は、ここまで来ればもう大丈夫とばかりに、しばらくの休養を挟んで6月9日には姫路を出発。明石を経て、夜半には兵庫港近くに野営します。
6月10日朝に秀吉軍は明石を出発し、同日夜には兵庫まで進みますが、夜は兵庫で充分に休息し、6月11日朝には出発し、摂津尼崎へは11日の夕刻頃に到着しました。
ここで、秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀、神戸信孝、有岡城主の池田恒興へ尼崎到着を報告しています。
こうしてみると、秀吉は備中高松から姫路までの神速に比較すると、姫路から先は慎重さを伴い着実な行軍に重点が置かれている事が分かります。つまり、羽柴秀吉は姫路城に入った時点で、すでに京を抑えた明智光秀との謀略戦にシフトしていたのです。
日本史ライターkawausoの独り言
無我夢中で毛利攻めを切り上げて、京都までの街道を疾走したかに見える秀吉ですが、実際に死に物狂いだったのは、高松から姫路までであり、そこから先は、むしろ慎重に謀略を仕掛けたり、中立の大名を味方に引き込んだりと、危なげない行動をしています。この秀吉の落ち着きは、信長に何かあると日頃から準備していたようにも見えますね。
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