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この記事の目次
備後鞆の浦に幕府を開くも・・
天正3年(1575年)には、義昭は信長包囲網を再形成しようと、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信に和睦を命じて、反織田で集結させようとしますが、うまくいきませんでした。
天正4年(1576年)義昭はさらに西に移動して、毛利輝元を頼り備後国の鞆に移動して鞆幕府を開きます。鞆は義昭の祖の足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けた由緒ある場所であり、同時に10代将軍の足利義稙が大内義興の庇護で京都に返り咲いた縁起の善い場所ではありました。
ともあれ、ここで義昭は幕臣を抱えつつ、毛利家からの財政支援や対馬の宗氏や島津氏からの献金、五山住持の任免権を行使してお金を得つつ、織田家打倒に突き進みます。
義昭1人なら十分な隠居料ですが、少なからず幕臣を抱え、情報収集や各地の大名の抗争の調停をしていたので、お金は幾らあっても足りず財政は火の車だったようでず。
義昭は、まだ足利将軍の威光が通じる関東の戦国武将に御内書を出し続け、騒乱を止めて一致協力して謀反人の信長を討てと陰謀を画策していきました。
しかし、義昭が信玄没後に頼りにした上杉謙信は手取川の戦いで柴田勝家の軍勢を破った後、天正6年(1578年)死去。もっとも強力なアンチ織田家勢力の石山本願寺も、信長の容赦のない殺戮と大軍での集中攻撃に抗しきれずに信長に降伏します。天正10年には、最後の関東の頼みの綱、武田勝頼も滝川一益などの軍勢により滅ぼされました。
本能寺の変後に再起を賭けるも・・
天正10年、6月2日、八方ふさがりの足利義昭に吉報が届きました。宿敵織田信長が京都本能寺で寵臣明智光秀の謀反に倒れたのです。明智光秀の家臣には、過去に義昭の家来だった伊勢貞興や蜷川貞周のような幕府奉公衆が多く含まれていました。
これは上洛のチャンスと義昭は毛利輝元に上洛の支援を求め、羽柴秀吉や柴田勝家にも同様の働きかけをしています。もう、下手な鉄砲玉、数撃ちゃ当たるの世界ですが、なんとかかんとか、天正11年2月には、毛利輝元、柴田勝家、徳川家康から上洛の支持を取り付けました。
しかし、毛利輝元は明智光秀を討ち柴田勝家も破り、小牧長久手の戦いで徳川家康を降した羽柴秀吉への臣従を誓い、上洛計画は頓挫しました。
足利義昭は本能寺の変の黒幕?
ところで、いわゆる本能寺の変には黒幕がいたという説では、足利義昭が明智光秀と通じて信長を殺したという説がありますがどうも事実ではないようです。
その理由としては、
①明智光秀が細川藤孝・忠興父子に宛てた手紙に足利義昭の名前が一切出てこない事
②足利義昭の下に信長を自害させたという密書が届いていない事。
③光秀は信長を討った事を使者を出して毛利に知らせようとしたものの、使者は間抜けにも秀吉の陣営に迷い込んで捕えられた事から、光秀と毛利、あるいは足利義昭とは定期的な使者の往来が無かった事等が挙げられるからです。
足利義昭が織田信長暗殺の黒幕なら、定期的に使者を往来させて光秀と情報交換する為に使者が通る専用の秘密ルートを設定していたでしょう。
それがないという事は、光秀と義昭の間に、定期的な使者の往来は無かったという証明であり、テレパシーで意思疎通していたのでない限り光秀と足利義昭の間に共同謀議など成立せず、義昭が光秀を使い信長を暗殺したというのは、娯楽作品の域を出ません。
秀吉の家来として京都へ帰還
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白太政大臣になり、将軍義昭よりも上位となりました。それでも、義昭は「関白太政大臣は公家、征夷大将軍は武家で別」とでも思ったのか、関白秀吉・将軍義昭ラインは共存します。
その頃、足利義昭は将軍として島津義久に秀吉との和睦を勧めていました。結果として義久はそれを受けず、秀吉の九州征伐となるのですが、それが秀吉の心証を良くしたのか、九州征伐の途中、秀吉は義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所を訪れました。足利義昭は田辺寺で秀吉と対面、島津氏が秀吉の軍門に降った後、14年ぶりで京都に帰還します。
征夷大将軍を辞し20年の将軍生活に終止符を打つ
そして、天正16年(1588年)1月13日、足利義昭は秀吉に従って朝廷に参内し、将軍職を辞した後で准三后の称号を与えられ再び出家して昌山と号しました。
もちろん、次の室町将軍はいませんから、この日、この時に室町幕府は完全に滅亡したのです。
かくして、足利義昭は隠居料として山城国槙島に1万石の領地を与えられ、前将軍として大大名格で遇される事になります。実際、文禄・慶長の役では秀吉の箔づけの為に軍勢200名を引き連れて肥前国名護屋まで参陣しました。しかし、59歳の老齢で長期の行軍は厳しかったらしく、慶長2年(1597年)8月、腫物が元で数日寝込んだ後に死去しました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
孤独に奮闘して永禄の政変で死去した兄、義輝と違い、義昭は何度か御所を襲撃されても、部下の奮闘で何度も命を救われていて、その為、それなりに強いカリスマ性があったと考えられます。
晩年には、秀吉の御伽衆の一人として、斯波義銀・山名堯熙・赤松則房等と秀吉の善き話し相手であったそうで、機知があり、話も上手だったのでしょう。
何とか、室町幕府の再興に奮闘し、多くの幕臣を抱えて織田家追い落としに執念を見せた義昭ですが、秀吉を相手には、わりとあっさり、将軍職を辞めてしまったのは義昭の恨みは信長個人にだけあったからか、それとも老齢になり気力が続かなくなったのか?真相は義昭しか分かりませんね。
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