足利義昭とはどんな人?本能寺の変の黒幕?

2020年7月24日


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足利義昭とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀が義昭のエンジェルに

明智光秀の親友・吉田兼見

 

越前で腐っていた足利義昭の下に、突如、明智光秀がやってきます。そして、一度は上洛を断念した織田信長が美濃斎藤氏を滅ぼした今、再度上洛に関心を示していると持ち掛けたのです。

鼓膜が破れる程声がデカい織田信長

 

(え?ノブリンが、やっだ!一回失敗したあの声がデカいパワハラ野郎に、もう一度(すが)れって言うの?ちょっと恥ずかしいかも、、でも、ちゃんと上洛の準備をしていたのは、ノブリンだけだし、ここは、もう一度だけ信じてみていいかも)

 

こうして義昭は一乗谷を離れて、美濃の立政寺に入ります。信長は、必ず上洛を果たすと約束し、ここから義昭の運命は大きく好転するのでした。

 



織田信長の快進撃で15代将軍へ

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

永禄11年9月、有言実行の男、織田信長は、北近江の浅井長政の指示を受けた上で、上洛を開始します。しかし、万が一の事を考えて義昭は信長と同道せずに、戦況を見つつ勝ち目がありそうなら勝馬に乗ろうという態度でした。

 

信長は、琵琶湖南下の途中、観音寺山、箕作山で六角義賢の軍勢を撃破して、すんなりと琵琶湖を渡ります。

 

これを見て足利義昭も時間差で出発、信長は三好三人衆を次々に追い出し、義昭は永禄11年10月18日に将軍宣下を受け15代将軍とまりました。義昭の信長への感謝は並々ではなく、手づから信長に酒を注ぎ、信長を御父上と呼ぶなど手放し状態です。

 

信長と義昭がコンビ解消

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

当初は信長と共同統治を続けていた義昭ですが、室町幕府を再建し義満の頃のような将軍専制を目指す義昭と室町幕府の威光を利用して天下静謐(てんかせいひつ)を目指そうとする信長とでは所詮は同床異夢でした。

 

義昭は信長の出した殿中御掟をあまり守らず、一方の信長も伊勢の北畠氏と義昭の調停で和睦しながら見解の齟齬(そご)で信長が次男の信雄を北畠氏の養子に強引にねじこむようになると、義昭が意思を蔑ろにされたと不快感を示し、そこから両者の溝は深まったようです。

真田丸 武田信玄

 

信長に不満を感じた義昭は、信長への依存を相対化しようと元亀2年(1571年)頃から、上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄、六角義賢などの有力な戦国大名に御内書を下し始めます。これが一般に織田包囲網と呼ばれるものです。

 

足利義昭は稀有な政治力を持ち、信長が天下に近づくほどに、周囲の戦国大名は滅亡の二文字に取りつかれて、反織田で結託する事を承知していました。

 

皮肉にも、天下を制するような戦国大名がいない間は、見向きもされなかった義昭が織田信長という強力な戦国大名の登場によりアンチ織田勢力が結集できる扇の要になったのです。

西遊記巻物 書物_書類

 

最初の内は勘弁していた信長ですが、元亀3年(1572年)10月に17カ条の意見書を足利義昭に叩きつけました。面白いのは、この意見書は何通も残っていて義昭ばかりではなくあちこちにばら撒かれたものであるようです。

 

意見書は文面は丁寧ながら、義昭の将軍らしからぬ悪行を糾弾(きゅうだん)し、6代将軍足利義教のような恐怖の大、「悪御所」であるとさえ書いていました。これで義昭が喧嘩を売られたと思わない筈はなく、二人の関係は修復不可能なレベルに突入します。

 

義昭、織田包囲網で信長を追い詰める

武田信玄を極端に恐れる織田信長

 

足利義昭はついに挙兵、東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信玄が徳川家康を一蹴すると、信長は一転して窮地に陥ります。

 

ところが、包囲網に参加していた朝倉義景が兵が冬で疲れているから退却しますと意味不明な理由で撤退。信玄は激怒して兵を出すように迫り、義昭も「せめて5000から6000の兵を京都郊外の岩倉山本へ出すように義景や朝倉一門に命じています。

 

元亀4年(1573年)正月、窮地の信長は子供を義昭の人質に送る事を条件に和睦を申し入れますが、もう勝ったつもりの義昭は提案を一蹴(いっしゅう)。近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れて、はっきりと反信長の旗を掲げます。得意満面の将軍様でしたが義昭の栄光はここまででした。

武田信玄死去

 

二つの城は、信長軍の総攻撃で数日で陥落、さらに、京都に来るはずの武田軍が4月に甲斐に引き返し、4月12日には、武田信玄が病没、義昭の野望は呆気なく潰えました。信玄が消えて甦った織田信長は上洛して知恩院に陣を張ります。現金なもので、この頃には幕臣の細川藤孝や荒木村重が義昭を見限り信長につきます。

 

それでも義昭は洛中の居城、烏丸中御門第(からすまなかみかどだい)に籠城して抵抗、再度、和睦を持ちかけた信長の提案を蹴りました。信長は本気である事を見せる為に幕臣や義昭の支持者が居住する上京全体に火を掛けて焼き討ち、朝廷工作の勅命で義昭と信長に和睦が成立します。

 

本能寺の変の織田信長

 

しかし、諦めきれない義昭は再度講和を破棄(はき)し、烏丸中御門第を三淵藤英等に任せた後で、南山城の要害、槙島(まきしま)城に移動して挙兵しました。信長は、これを7万の兵力で包囲して圧力をかけ、大筒を撃ち込んで城の施設を破壊、さらに、烏丸中御門第の三淵藤英が降伏すると丸裸になった槙島城では、籠城も難しく義昭も渋々降伏します。反逆の代償は大きく、義昭は京都を追放され教科書的には、室町幕府は滅亡した事になっています。

 

放浪する足利義昭

毛利輝元

 

京都から追放された義昭は、いったんは琵琶荘に退いたものの本願寺顕如の仲介などで、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移動します。しかし、三好義継と信長の関係も悪化し、11月5日には和泉の堺に移動しました。

 

ここで、信長が羽柴秀吉と朝山日乗(あさやまにちじょう)を派遣して、京都に戻るように要請しますが、義昭は「信長が俺に人質を差し出すなら()」と法外な要求を出してきて破談。

 

この時、虫のよい条件にブチ切れた秀吉が、「どこへなりとお行きになればよろしかろう」と捨て台詞を吐いて交渉の席を蹴っています。こうして、義昭の放浪は続き、天正2年には紀伊国興国寺に入り、そこから田辺の泊城に移動しました。義昭は何も闇雲に紀伊に来たのではなく、ここが室町幕府管領畠山氏の勢力が残る土地で、特に畠山高政の重臣の湯浅直春の勢力が強大だったからです。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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