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この記事の目次
目立った活躍がないまま蜀将として死去
劉備は馬超を平西将軍に任命し、臨沮に駐屯させ都亭侯に封じます。しかし、蜀ファンには残念なことに、この頃の馬超はすでに燃え尽きていて安定志向にシフトしていたのか保守的な行動が目立つようになります。
例えば、諸葛亮にその野心を嫌われ左遷された彭羕が、途中に馬超を訪問し「劉備の老いぼれは話にならない、俺と組んで蜀を奪い天下を目指そう」とクーデターを持ちかけると馬超は今の地位を失う事を恐れ、彭羕のクーデター計画を上表したので彭羕は処刑されます。
彭羕の話は、諸葛亮を重く扱う劉備に対する恨みつらみのような感じで、本当にクーデターをするつもりだったかは疑問ですが、馬超は、いつかこの話が漏れ馬超が彭羕からクーデターを持ちかけられたが黙って報告しなかったと糾弾されるのを回避したのでしょう。
西暦217年、馬超は劉備の漢中攻略に従軍、下弁方面で張飛、呉蘭、雷銅と参加するも、曹洪や曹休に阻まれて大した戦果は挙げていません。それでも、ブランドの馬超の威力は健在で、漢中王に即位した劉備により建安24年(219年)左将軍に任命され、仮節を与えられます。
さらに章武元年(221年)劉備が蜀帝として即位すると、馬超は驃騎将軍・涼州刺史に昇進しますが、間もなく47歳で病死しました。
馬超(ばちょう)の年表
・熹平5年(西暦176年)、関中軍閥、馬騰の長男として扶風郡茂陵県で誕生。
・建安元年(西暦196年)頃、初陣で韓遂の武将の閻行と戦い敗れ、死にかける。
・建安7年(西暦202年)平陽の戦いで部将の龐徳を補佐に騎兵1万を率いて袁尚軍の配下、郭援の軍勢を破る。
・建安13年(西暦208年)馬騰と一族が鄴に移動したので馬騰の兵力を引き継ぐ
・建安16年(西暦211年)曹操の漢中征伐に不安を覚え、韓遂と共に挙兵して潼関で曹操と戦い、曹操を殺す寸前まで追い込むが敗れて逃げる
・建安17年(西暦212年)潼関の戦いの見せしめで馬騰以下一族200名が処刑、怒った馬超は蜂起して涼州の拠点冀城を落とすが楊阜の計略に敗れ漢中の張魯を頼る
・建安19年(西暦214年)張魯と不仲になり、当時劉璋を攻めていた劉備に書簡を送り帰順、平西将軍、都亭侯に封じられる。
・建安22年(西暦217年)劉備の漢中攻略戦に従軍するが、特に手柄なく帰還
・章武元年(西暦221年)劉備が皇帝に即位し、驃騎将軍・涼州刺史に任じられる。
・章武2年(西暦222年)47歳で死去、従兄弟の馬岱を後継者に遺言。
三国志ライターkawausoの独り言
馬超の経歴を振り返ると、やはりそのピークは曹操と潼関で激突した頃ではないかなと思います。その後、馬騰以下一族200名あまりが謀反の代償として処刑され、怒りに震える馬超は、涼州の拠点、冀城を奪って独立しますが、ここも楊阜の計略で落とされ、再び城に残った妻子が処刑されました。
一族を失う度に馬超からは覇気が消え、劉備を頼った頃には、彭羕の腹いせか本気かも不明なクーデター計画に怯えて、これを上表して難を逃れるなど、「もう逃げ回る生活は嫌だ」という馬超の叫びが聞こえそうな対応をしています。
実際に、蜀で大規模な闘いに参加したのは漢中攻略戦のみで、特に手柄もありませんでしたしね。それでも名声が高い馬超は、劉備の昇進に併せて破格の待遇で昇進し、最後を見れば、畳の上で死ぬことができ、馬岱に後継を託す事も出来たんですから、その大敗ぶりを考えると、幸運な部類に入る生涯だったのでしょうね。
参考文献:正史三国志
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