馬超とはどんな人?一族を殺される度に絶望した蜀の五虎将【年表付】


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馬超とはどんな人?(1P目)

 

曹操の張魯討伐に怯え韓遂を巻き込み謀反

曹操を絶対殺すマンとしてなった馬超

 

建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇と夏侯淵等に命じて漢中の張魯を討伐しようとします。この動きに「曹操が関中軍閥の自治を否定し、直接統治に切り替えるのではないか?」と疑った馬超は疑心暗鬼になっていきました。しかし、1人で独立する事に自信が持てない馬超は、遠征から帰って来た韓遂に接近して、共に曹操に反旗を翻そうと持ち掛けます。

 

生来の反逆児だった韓遂ですが、すでに曹操に人質を出していて、謀反を躊躇(ちゅうちょ)しました。

 

それに対して馬超は

 

「私の父も曹操の人質ですが私はあなたを父とします、だから、あなたも実の子を捨てて私を子として下さい」と強力プッシュします。韓遂は断り切れず、馬超の反乱に加担しました。

内容に納得がいかないkawauso様

 

こうして聞くと韓遂はヘタレだなあと思ってしまいますが、そうではありません。実際、この頃には関中においては反曹操の風潮が支配的で劉雄鳴(りゅうゆうめい)のように馬超に従わない軍閥の長は撃破されていたのです。つまり韓遂が協力を拒否すれば、

 

「貴様、曹操に内通する気だな!許さん!こいつを斬って宣戦布告だ」になるのは間違いないので内心は嫌でも、もうどうしようもありませんでした。

 

潼関の戦い

赤鎧を身に着けた曹操

 

馬超は10万の関中軍閥の支持を得て挙兵しますが、基本DQNしかいない脳筋メンバーなので長安の学者、賈洪(かこう)を拉致して宣戦布告文を書かせています。この賈洪、後に曹操に仕えますが、この時、馬超の宣戦布告文を書いた事で出世が相当遅れたそうです。可哀想に。

 

さて、馬超の挙兵の狙いは曹操を滅ぼして中華統一!ではなく、黄河以西の土地を完全に支配し、曹操の干渉を完全にシャットダウンする事でした。そこで、馬超は洛陽方面と長安方面を結ぶ要衝で険阻な土地である潼関(どうかん)の支配を目論み、曹操は曹仁を派遣して潼関を防御させます。

 

曹仁

 

この戦いで馬超は、黄河を北に渡る為に殿(しんがり)を務めた曹操の軍勢に対し、騎兵1万を指揮して突撃を仕掛け、曹操の殿は大混乱しました。しかし、ここで、曹操軍の典軍校尉丁斐(てんぐんこういていひ)が牛や馬を放ち、これに気を取られた馬超の騎兵が曹操を放り出して戦線を離脱したので曹操はボディーガードの許褚に守られ危機一髪で黄河を渡り終えたのです。

 

馬超の突撃は曹操を危うく落命させかけた事で錦馬超の名を不朽にしましたが、結局、二度と曹操の命を狙うチャンスは訪れず戦線が膠着します。

 

途中、曹操と韓遂、馬超も交えて馬上で和睦(わぼく)交渉をする機会があり、馬超はこれを機に、曹操に襲い掛かり刺してやろうと狙いますが、曹操のボディーガードの許褚が、延々と凄い形相で馬超を睨んでいたので、怖くなった馬超は何も出来なかったそうです。馬超には、案外ビビりな面もあったみたいです。

馬超と韓遂

 

会談が不首尾に終わった後、曹操の腹心の賈詡(かく)が偽手紙を使い、馬超と韓遂の関係を壊したので、協力できなくなった関中軍閥は崩壊、馬超も韓遂も本拠地に逃げ去りました。

 

謀反の代償、一族のほとんどを失う馬超

蜀では結果が出せない馬超

 

曹操は馬超にトドメを刺さないままで帰還しようとしますが、部下の楊阜が馬超は韓信や黥布のような武勇を持ち、羌族も心服しているので警戒を怠るべきではないと進言し、曹操ももっともだと応じますが、同時期に蘇伯と田銀が河間で反乱を起こしたので、結局関中から離れてしまいます。

 

命拾いした馬超ですが、曹操が馬超の謀反を放置するわけもなく報復として鄴にいた馬騰とその一族200名あまりを一斉に処刑しました。それを知った馬超は、激しく胸を叩いて血を吐き、曹操への復讐を誓います。

 

しかし、関中に残留した馬氏一族は馬超と馬岱の2名だけですから、血族を非常に重視する当時の考えからすれば、馬超の受けたダメージは計り知れないですね。名前は出て来ませんが、200名あまりの馬一族には練達の騎兵も猛将も大勢いたであろう事が容易に想像できますから。この時以来、馬超は有力群雄に寄宿して生きる傭兵隊長のような人生を選択せざるを得なくなったのです。

 

冀城を根拠に再起を図るも楊阜に謀られ没落

馬超の兜にフォーカス

 

復讐に燃える馬超は、羌族の兵を集めて隴上(ろうじょう)で蜂起、まだまだ馬超の盛名は高く、郡や県のほとんどが馬超に靡き、瞬く間に大軍が形成されます。

 

涼州の刺史、韋康(いこう)は冀城に籠城して、雲霞の如き馬超軍の包囲を8カ月に渡り凌ぎますが、馬超の降伏すれば命までは取らないという言葉を信じ部下の反対を押し切り投降。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

しかし、そんな約束を守る気はない馬超は韋康を騙して殺害して、冀城を根城にして味方を増やし、自ら征西将軍、并州牧、涼州軍事総督と称しました。その後、馬超を討伐しようと夏侯淵が出てきますが、馬超は夏侯淵を撃破し氐族の千万・阿貴を味方に引き入れて勢力を盛り返しました。

 

ところが、韋康の仇討ちに燃える楊阜は、冀城や周辺勢力と連携を取りながら、西暦212年9月に鹵城で馬超打倒の兵を挙げます。馬超はこれを攻撃すべく冀城を出撃。その隙に兼ねてより、楊阜と連携していた安定の梁寛や南安の趙衢が冀城を攻撃、内応もあり冀城は落城しました。

 

ブチ切れる曹操

 

本拠地を失った馬超は、戻る事も攻める事も不可能な状態に追い詰められ漢中の張魯(ちょうろ)を頼り落ち延びていきます。曹操は冀城で捕えた馬超の妻子も残らず殺害したそうです。

 

張魯に疎まれ、ついに劉備を頼る

五斗米道の教祖・張魯

 

馬超は張魯から兵を借りては、冀城の奪還に何度か挑戦しますが、趙昂(ちょうこう)やその妻王異(おうい)の抵抗に苦しみ、さらに夏侯淵・張郃らが援軍に来たので上手くいきません。

 

さらに、成果を挙げられない馬超に、張魯配下の楊伯等は張魯に対して馬超に肩入れする事を非難するようになり、張魯も馬超を(うと)んじるようになります。一方の馬超も、次第に援助が消極的になる張魯に不信感を抱き、当時益州牧の劉璋を成都で包囲して上り調子の劉備に書簡を送って帰順を打診しました。

馬超と別れるホウ徳

 

劉備は喜んで帰順を承諾、すると馬超は、漢中で得た妻子とこれまで付き従ってきた重臣の龐徳まで捨て、従兄弟の馬岱と2人だけで出奔。劉備は、すぐに使者を派遣して丁重に馬超を迎え入れました。それを伝え聞いた成都の劉璋は、馬超が劉備についたのではもうオシマイと意気消沈し、降伏勧告を受け入れて成都を開城しています。

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