馬超はメンタルが弱い?馬超孟起のメンタルが弱かった理由

2019年4月2日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

五虎大将軍の馬超

 

馬超(ばちょう)(しょく)(221年~263年)の武将です。蜀に仕えていた期間は非常に短く、活躍期間も後漢(ごかん)(25年~220年)の時期なので、正確には後漢末期の武将が正しいと思います。

 

 

 

ボロボロになった馬超

 

さて、馬超はマンガやゲームでは戦闘力の高い人物として知られていますが、実際には馬超は弱いと言われています。

今回は戦場における実際の馬超の姿について解説いたします。

 

 

関連記事:新人・馬超が劉備と馴れ馴れしく口をきいていた!?

関連記事:実は馬超は漢民族じゃなく異民族だった?

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



文武両道の人物であった馬超孟起

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

まず、馬超がどのような人物なのか解説します。馬超は剛力無双で騎馬戦に優れていました。

だが、それだけではなく学識もあったと分かります。

 

悪い顔をしている諸葛亮孔明

 

諸葛亮(しょかつりょう)関羽(かんう)にあてた手紙の中で馬超は次のように評価されています。

「馬超は文武を兼ね備え、勇壮、人に優れた一世の英傑でして張飛(ちょうひ)とは格好の競争相手でしょう」

 

張飛の男気人生

 

この手紙の内容から、馬超は張飛(ちょうひ)と互角に渡れる人物であり、識字能力もあったと分かります。当時の武将は識字能力がゼロに等しいのが当たり前です。

典型例は蜀の武将の王平(おうへい)です。

 

彼は本当に文字を知らないので、命令文書は部下からの口頭で理解していたようです。つまり、関羽や馬超のように識字能力があった武将は非常に珍しい事例です。

 

 

 

馬超の父 馬騰

馬騰

 

馬超の父は馬騰(ばとう)と言います。身長193センチの大男でした。バレーボール選手のレベルですね。初平3年(192年)に董卓(とうたく)から征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命されて長安に行きました。

 

梁興と馬騰

 

しかし、行くと董卓(とうたく)は殺されて混乱に陥っていました。馬騰は義兄弟の韓遂(かんすい)と一緒に董卓の残党と戦闘になりますが、敗北して撤退しました。

建安2年(197年)には袁紹(えんしょう)との連携を危険視した曹操(そうそう)の懐柔策により、馬騰(ばとう)は爵位を与えられました。

 

建設13年(208年)には老齢を理由に馬騰は都に来て、一族と余生を過ごしていました。ただし、馬超だけは都に行かずに馬騰の本拠地の槐里(かいり)にいました。

 

漢のマイナー武将列伝

 

馬超の反乱

五斗米道(はじめての三国志)

 

建安16年(211年)に曹操は征西を行う決意をします。表向きは五斗米道(ごとべいどう
)
張魯(ちょうろ)の討伐ですが、これを口実に西方に割拠している軍閥(ぐんばつ)を始末する気でいました。

 

出世した韓遂

 

危険を感じた馬超は韓遂(ばちょう)侯選(こうせん)程銀(ていぎん)楊秋(ようしゅう)李堪(りかん)張横(ちょうおう)梁興(りょうこう)成宜(せいぎ)馬玩(ばがん)と一緒に反乱を起こしました。

誘い出しに成功した曹操は馬超を迎え撃ちました。

 

許チョ(許褚)

 

馬超は曹操(そうそう)を捕縛するつもりでしたが、曹操の周囲を許褚(きょちょ)が護衛していたので、近づけません。『三国志演義』では馬超と許褚の一騎打ちが行われるのですが、これは創作です。

 

馬超 vs 許褚

 

この戦で馬超は曹操を追い詰めますが、許褚(きょちょ)の奮戦により阻まれます。また、馬超の方も李堪(りかん)成宜(せいぎ)が討ち死にする損害が出ました。

曹操も長期戦は出来ません。

 

賈詡

 

曹操は参謀の賈詡(かく)の策を取り入れました。

 

メンタル力が弱い馬超

馬上で曹操と会談する韓遂と閻行

 

ある日、曹操は馬超と手を組んでいる韓遂を呼びました。何かと思って韓遂は曹操に会いました。

だが、曹操は適当な雑談をして帰ってしまいました。

 

韓遂も遠くから見ていた馬超も「?」でした。またある日のこと、曹操から韓遂(かんすい)に手紙が届きました。封を開けると、何が書いているのかさっぱり分かりません。

 

韓遂と馬超はまたも「?」でした。

馬超はこの時、韓遂に対して疑惑が生じました。

 

 

馬超と韓遂

 

(韓遂め、曹操と内通を・・・・・・)

 

馬超って個人的武勇はあるのですけど、メンタル力無いのですよ。

 

「メンタル力・・・たったの5か・・・ゴミめ・・・」

 

すいません、『ド〇ゴンボール』ネタで乗り切ろうかと思いました。

ダメですか?

 

ダメですよね。

 

続けます。

 

賈詡

 

結局、賈詡の策が成功して馬超たちは内部分裂を起こしました。

そこを曹操に攻められて敗れました。

 

馬超はどうにか逃げました。

なお、馬超の父や一族は責任をとらされて死刑にされました。

 

三国志ライター 晃の独り言

 

馬超はその後、巻き返しを図りますが、あっけなく敗れます。

仕方なく張魯のもとに行きますが、身内を見殺しにしたことで重用されません。

 

結局、劉備(りゅうび)に降伏して重用されるのですが、それは蜀に人材が乏しかったからです。蜀での活躍は皆無に等しく、蜀の章武2年(222年)にこの世を去りました。

 

47歳の生涯でした。馬超は個人プレイに関しては強いのですが、みんなで協力することが苦手でした。

だからメンタルが弱かったのです。

 

※参考文献

・林田慎之介『人間三国志豪勇の咆哮』(初出1989年 のち集英社文庫 1992年)

・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)

・渡邉義浩『三国志 (図解雑学)』(ナツメ社 2000年)

 

関連記事:龐徳は馬超に義理で部下になっていた!?

関連記事:馬岱は馬超と蜀に降ったのに何故龐徳だけ漢中に残った?

 

一騎打ち

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

-三国志の雑学
-