こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
諸葛亮、泣いて馬謖を斬る
街亭を張郃に抑えられた事で諸葛亮は背後に魏軍を抱える事になり、進軍経路を遮断される事が確実になったので、雍州の攻略を諦め退却を開始しました。馬謖は、王平が殿を務めて善戦したお陰で辛うじて生き残る事が出来ましたが、諸葛亮としては、馬謖の責任を問わないわけにはいきませんでした。
そうでなくてもゴリ押し登用であり、ここでなあなあにしては、もう蜀軍は孔明の命令を聞こうとはしなくなるでしょう。
西暦228年5月、漢中に帰還した諸葛亮は、敗戦の責任を問い馬謖を死罪としました。諸葛亮は、涙を流しながら処刑を命じ、これが後に「泣いて馬謖を斬る」と呼ばれる故事になったのです。
馬謖の死を惜しんだのは孔明だけではない
馬謖は処刑にあたり、孔明に対して、
「私はあなたを父とも慕い、あなたも私を子のように思って下さいました。
願わくば、舜が鯀を処刑しても、その子の禹を取り立てたように、私の息子に対しては平生と変わらぬように遇して頂けると幸いです。そうして下さるなら、死んでも恨む事はありません」と言い残しました。
襄陽記によると、この時に十万の兵士は馬謖の為に涙を流したと言われています。孔明も、馬謖の願いを聞き入れ遺児については平生の通りに遇しました。
また、馬謖の死を悼んだのは諸葛亮だけではなく、蔣琬も天下が定まる前に智計の士を殺すとは惜しまずにはおられませんと言っています。馬謖の死は自業自得と冷たく突き放されるものではなく、蜀の多くの人々に惜しまれた事だったのかも知れません。
どうして諸葛亮は馬謖を斬ったのか?
将兵も同情的であり、蔣琬も殺す事はないんじゃないの?と言っていたわけですから、蜀の陣営で馬謖を斬るべきだという意見は、そこまで強くなかったかも知れません。それでも、孔明が涙を流してまで馬謖を斬ったのは法が蔑ろにされる危険事態だったからです。
もし、孔明が馬謖を赦してしまえば、軍法は諸葛亮に近い人間には適用されず、孔明に近い人は法を無視して好き放題するようになるでしょう。逆に、孔明から遠い人々には軍法を押し付ける事になり公平が損なわれます。
それでは、だれもまともに軍法を守らなくなり、その結果生まれる弊害は愛弟子である馬謖を斬るよりも大きなものだったために、孔明は非情に徹したのです。
馬謖(ばしょく)・年表
・初平元年(西暦190年)荊州襄陽郡宜都県に誕生。兄は白眉で名高い馬良。
・建安17年(西暦212年)荊州従事として劉備に従い入蜀
・建安19年(西暦214年)益州平定後、綿竹・成都の県令・越巂太守を歴任
・建興2年(西暦224年)南中の雍闓の反乱に対し孫子を引用、懐柔策を献策し、諸葛亮の南中平定に貢献。
・建興6年(西暦228年)3月、第一次北伐で先鋒を任されるが、諸葛亮の命令を無視し街亭の山頂に布陣。張郃に水を断たれ大敗する。
・建興6年(西暦228年)5月、敗戦の責任を取らされ処刑される。享年38歳。
三国志ライターkawausoの独り言
馬謖は策士策に溺れるの典型だったのでしょうか?
無能ではなかった馬謖ですが、実際に軍を率いるのは街亭が初めてであり、実戦不足と机上の空論である兵法の知識が、最悪の形でフュージョンしたのかも知れません。諸葛亮も馬謖に、もう少し実戦で経験を積ませる配慮があれば、あたら有能な人材を失う事はなかったでしょうにね。
参考文献正史三国志
関連記事:馬謖は諸葛亮にチョー可愛がられていたのは本当?溺愛していた理由とは
関連記事:王平とはどんな人?降伏することは恥ではない馬謖の副官
【北伐の真実に迫る】