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仙石秀久とはどんな人?人生をV字回復させた不屈の戦国大名【年表付】

2020年7月25日


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仙石秀久とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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九州攻めで大敗した上に敵前逃亡でクビになる

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

しかし、天正14年(1586年)上り調子の秀久を試練が襲います。秀吉の命令を受けて、四国勢の軍監(ぐんかん)(統括責任者)として九州に渡海し、島津軍と対峙していた仙石秀久は持久戦に徹せよとの秀吉の命令を無視。

 

2万の軍勢から士気がある程度高い6000名を選抜して戸次川(へつぎがわ)で戦い、当初は島津家久を押していたものの、力み過ぎて突出しすぎた秀久軍を家久がピンポイントで急襲した事で形勢が逆転。

 

さらに中央と右翼からの増援により数でも上回られた秀久本隊は壊滅的な打撃を受け第二陣の長宗我部信親隊と十河存保隊も総崩れになり、存保と信親も討死しました。第三軍の長宗我部元親は、息子の信親の討死を聞いて意気消沈し、その場で腹を切ろうとしますが部下に制止され伊予国に逃げます。

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

仙石秀久の失態はこれで終わらず、軍監として諸軍を纏める責務も果たさず、部下を差し置いて小倉城に入城。さらに小倉城で籠城もせずに、20名の家臣団と共に遠征軍と敗残兵を残して本拠地の讃岐に退却してしまったのです。いかに古参でも、こうまで失態が続いては秀吉も庇う事が出来ず、讃岐10万石を取り上げた上でクビにし、高野山へ追放しました。

 

どうして秀久は無理をしたのか?

派手に戦に負ける仙石秀久

 

どうして、秀久は少ない兵力で島津軍に攻め掛かってしまったのでしょうか?

 

そこには、秀久が与えられた2万の兵力が豊臣本隊を除き、士気が低い寄合所帯だった理由があります。

 

豊臣秀吉と対立する長宗我部元親

 

大友氏は数こそ多いものの士気は最低、長宗我部氏と十河氏は、この間まで豊臣軍と戦っていた関係から結束が弱く秀久が頼りに出来るのは豊臣の本隊だけで、一刻も早く秀吉の本隊到着を望んでいました。ところが秀吉は、毛利氏が島津を牽制して薩摩には戻れないから持久して消耗を待てと秀久に命じ、いずれ自分が渡海すれば、島津氏など一撃で粉砕できるから心配するなと手紙で返答。

 

焦れた秀久が独断で攻撃を仕掛けたのです。

 

小田原攻めで功績を挙げ大名に返り咲く

北条早雲

 

改易(かいえき)からしばらくは高野山で隠棲し、京都や大坂にいた事もあった秀久ですが立身出世を諦めてはいませんでした。天正18年、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げ、小田原征伐を開始すると三男の仙石忠政(せんごくただまさ)と美濃に渡り20名の旧臣を集めて浪人愚連隊(ろうにんぐれんたい)として秀吉の前に馳せ参じます。

 

いわば勝手に戦争に参加した形式で、当時の言葉で陣借(じんか)りと言いますが、秀吉は秀久を許していないものの、家康の執り成しで従軍を許されました。

戦にめっぽう強い柴田勝家

 

ここで、秀久は糟尾(かすお)(かぶと)と白()りに日の丸をつけた陣羽織を着て、紺地(こんじ)()の字を白く出した馬印を真っ先に押し立てて手勢を率いて、豊臣軍の先頭を進んだそうです。

 

さらに、敵兵を自分にひきつけようと、陣羽織一面に鈴を縫い付け逃げも隠れもしないというアピールをしました。九州攻めで指揮下の軍勢を放り出して逃げたのだから、今度は自分が真っ先に死のうという意趣返しでしょう。

 

宴会好きな豊臣秀吉

 

格好だけではなく、武勇でも若い頃のように十文字槍を奮って力戦し、伊豆山中城攻めでは先陣、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠する手柄を挙げました。戦勝の後に秀久は、秀吉から金の扇子(せんす)を手づから下賜され、さらに讃岐の半分にあたる5万石の領地を信濃国小諸(しなののくにこもろ)に与えられて大名として復活します。

 

豊臣政権下では、小諸の在地大名ではなく、秀吉の家臣として京都に滞在していて、文禄元年(1592年)朝鮮出兵では肥前名護屋城の築城工事えで功績を挙げ、従五位下(じゅごいのげ)・越前守に叙任、文禄3年(1594年)には伏見城築城工事で同様の功績を挙げたので、7000石を加増されて57000石の大名となりました。

 

この伏見城で、秀久は大盗賊・石川五右衛門をねじ伏せて捕縛した伝承があるそうです。

 

秀吉没後は徳川家康につき信濃小諸藩初代藩主として死去

徳川家康

 

慶長3年(1598年)8月豊臣秀吉が病死すると、豊臣政権下で武断派と文治派の対立、及び五大老五奉行の内紛が始まります。しかし、秀久は小田原で徳川家康に助けてもらった恩から、早くから徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の(げき)に応じて兵を招集します。

 

関ケ原の戦いでは、中山道と北国街道を結ぶ交通の要衝、小諸を引き続き鎮撫、信濃に徳川秀忠(とくがわひでただ)が着陣すると、これを単騎で迎え真田攻めのために小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣します。

真田昌幸と徳川家康

 

上田城攻めで秀忠が敵将の真田昌幸の善戦で立ち往生すると、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かうように薦め、関ケ原本戦に遅刻した秀忠が家康に叱責されると、秀久は家康に対して取りなして、外様ながら秀忠の信頼を得て、後に秀忠が家康の後を継いで征夷大将軍に任じられると特に重用されます。

 

関ケ原では、大きな手柄はないものの、所領は安堵され信濃小諸藩の初代藩主となりました。

 

こうして、人生のどん底からV字回復を果たした仙石秀久は、準譜代大名として徳川秀忠政権で厚遇され、慶長19年(1614年)江戸から小諸へ帰る途中に病を得て、武州鴻巣(こうのす)で62年の生涯を閉じる事になります。

 

仙石秀久の年表

信長公記_織田信長_書類

 

・1552年(天文22年)1月26日に美濃国の土豪仙石治兵衛久盛の4男として誕生。

・1567年(永禄10年)14歳で織田信長に仕え、羽柴秀吉の与力になる。

・1583年(天正11年)瀬戸内の制海権を守った功績で淡路5万石の大名になる

・1585年(天正13年)四国攻めの功績で讃岐一国10万石の大名になる

・1586年(天正14年)九州攻めで秀吉の命令に背き島津家久と戸次川で戦い大敗、改易され浪人になる

・1590年(天正18年)小田原攻めで20名の浪人を率いて秀吉の前に馳せ参じ手柄を挙げて信濃小諸5万石の大名に返り咲く

・1600年(慶長3年)徳川家康の会津征伐に従い、徳川秀忠に従軍して上田城の戦いに従軍。

・1614年(慶長19年)62歳で死去。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

仙石秀久は、逃げっぷりが素晴らしい武将です。

 

長宗我部相手には(のぼり)を奪われる失態を演じ、九州では軍監のくせに配下の大名を放り出して九州から讃岐まで逃げてしまいました。しかし、多くの武将は逃げに徹しきれずに途中で追いつかれて自決を選んでしまう事もあり、それで失敗する事もあります。

 

それを見ると、誰に何を言われようと逃げて生き延び、人生を挽回した仙石秀久は立派だと言えるでしょう。

(文:kawauso)

 

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織田信長スペシャル

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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