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この記事の目次
お金儲けをする修道騎士団
テンプル騎士団の構成員は、入信する時にこの世での栄華を捨てる証として私有財産を全て寄贈して共有し生活費など諸々の経費を出していました。これは、ヨハネ騎士団のような、別の修道騎士団でも行われていて珍しい事ではなく、そういう非営利の側面があるからテンプル騎士団は免税や財産保護の特権を得ていたわけです。
しかし、テンプル騎士団は、他の騎士団と違い聖地巡礼のキリスト教徒を保護する名目で金融資産を預かり、現地で振り出す自己為替手形のような銀行業務も行うようになります。
これは、危険な道中で大金を持ち歩く巡礼者の資金を守る為でしたが、莫大な資金を預かるようになったテンプル騎士団は、預金を融資に回すなどして富を蓄え、預金通帳のような書類を作って顧客の信用を得るなど、当時最新の金融技術を持つ組織として機能するようになっていきます。
さらに、テンプル騎士団は、名声を得て欧州各地から土地の寄進を受けたので、そこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を経営し、ついには自前の艦隊まで保持するようになり、キプロス島全域を支配するまでになります。
パリの支部では、フランスの財政を管轄するばかりか、戦乱でお金がないフランス国王に度々資金を融資する金融組織の顔を見せるようになりました。1146年には、ルイ7世の命令で王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられるようになります。
有数の金持ちになり恨まれるテンプル騎士団
そもそも、テンプル騎士団は騎士団と言いつつも、実際に戦うのは数パーセントにすぎず、それ以外の修道士は資産管理に従事している特殊な組織でした。
修道騎士団は、自前の資産で無一文の修道士を養う為に利殖をしているのですが、テンプル騎士団は、それを乗り越えてしまい、巨大な営利団体に成長したのです。もちろん、資金潤沢で多くの特権を持つテンプル騎士団には、修道会からも商売人からも非難の声が上がるようになっていきました。
それでも、聖地を守る騎士団の名声が不満を上回っていた間は良かったのですが、しばらくするとその軍事的な名声も怪しくなってきます。
存在意義を失うテンプル騎士団
一時は軍事的な名声で聞こえていたテンプル騎士団ですが、経済的発展とは裏腹に軍事面では凋落が目立つようになります。
テンプル騎士団の総長ジェラール・ド・リデフォールが宿敵サラーフ・アッディーンとの数次の戦いに敗北しただけでなく自らが捕虜になったのです。これは、投降よりは死を選ぶという騎士団の有名に泥を塗りました。
さらに、ジェラール総長は一度解放されたものの、再び捕虜になり斬首されたので、欧州でテンプル騎士団の威信は地に落ちます。西暦1291年、レヴァントにおける最後の十字軍の国家であったアッコンがマムルーク朝アシュラフ・ハリールにより陥落。これにより、キリスト教徒の勢力は完全に聖地回復の足掛かりを失い、テンプル騎士団もその本拠地を失う事になります。
戦いの場を失った他の騎士団が、新しい戦いの場所を見出そうとしていた一方で、資産に守られたテンプル騎士団には危機感が薄く、イベリア半島でのムスリムとの小競り合い以外、騎士団らしい事は何もしなくなりました。
フィリップ4世の提案を蹴り恨まれる
テンプル騎士団を破滅させたのは、13世紀の終わりに登場したフランス王フィリップ4世でした。
王は財政面で幾度もテンプル騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、当時もっとも勢力のあった聖ヨハネ騎士団と聖テンプル騎士団を合併し、自らがその指導者の地位について聖地を奪還、その後に自分の子孫に聖地の王の地位を継承していく事で全欧州に影響力を及ぼすという狂気の夢を持っていたのです。
その為、フィリップは国庫の歳入を減らす教会への1/10税の献金を禁止、教皇と揉めた上、通貨改鋳を行い利ザヤを稼ぐと、国内のユダヤ人を一斉に逮捕し、資産を没収した上で国外追放という暴挙に出ました。このフィリップ4世、美男王と呼ばれたイケメンでしたが、無口で表情に乏しく何を考えているのか分からない人だったとか、、怖い怖い
資金を得たフィリップ4世は、聖ヨハネ騎士団との合併を当時のテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに持ち掛けますが当然のように拒否されます。しかし、諦めない王は、合法的にテンプル騎士団から財産を没収する方法として、異端審問方式をとる事にします。
つまり、テンプル騎士団が反キリストの悪魔崇拝者であるというでっちあげの裁判をして有罪とし、主要な幹部を火刑にし財産を没収するわけです。
本来、異端審問はローマ教皇の許可なしには開けないのですが、当時の教皇クレメンス5世はフランス人であり、しかもフィリップ4世の援助で教皇になった人物で丸め込んで仲間に引き込むのは簡単でした。
こうしてフィリップ4世は、テンプル騎士団の秘密の入会儀式で男色行為や反キリストの誓い、悪魔崇拝が行われているという容疑で起訴する事にします。
4人の指導者が火あぶりにされテンプル騎士団壊滅
西暦1307年10月13日、フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を前触れなく一斉逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名を被せたうえで、拷問を使い罪を自白させました。
さらに異端査問会での査問官は、すべてフランス王の息がかかった高位聖職者であり、特権を持つテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであり最初から結果は明らかでした。テンプル騎士団は、異端の烙印を押され資産は聖ヨハネ騎士団に移す事、以後の活動を全面禁止することが決定されました。
1312年、教皇クレメンス5世は、フィリップ4世の意を受けて開催したヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定しますが、フランス以外ではその決定は実行されませんでした。
すべての財産の没収を終えたフィリップ4世は、1314年に投獄されていた4人の指導者達の死刑を指示し、ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島刑場で生きたまま火あぶりにされました。
欧州のテンプル騎士団全部が壊滅したわけではないものの、大きな力があったフランスのテンプル騎士団が壊滅した事で、以後、テンプル騎士団の活動は弱まっていきます。
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