シャルロット・コルデーとはどんな人?暗殺の天使は超トホホだった


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農民達に踏みつけられる革命暦と落ち込む革命家

 

人間にとっては悪事でも、いや悪事であればこそ実行犯の美醜(びしゅう)(こだわ)るもののようです。それが、おぞましい殺人犯でも美男美女なら歴史に残り芸術作品にさえなります。

 

シャルロット・コルデー

 

今回紹介するシャルロット・コルデーも、そんな美しき暗殺者、「暗殺の天使」と呼ばれますが、その暗殺はとても的外れで、当時の人々さえ?と思わずにはいられませんでした。今回は思いつめたら人間はロクな事しないの典型、シャルロット・コルデーを考えます。


没落した貧乏貴族の家に生まれる

セミナリオ(教会)

 

シャルロット・コルデーは正式な名前をマリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモンと言い、三大古典詩人の1人ピエール・コルネイユの子孫として没落した貧乏貴族のコルデ家に生まれました。

 

貧しいながらコルデ家は11世紀には貴族に叙爵された名家であり、彼女の父は、うちは王様よりも古く続く名家なのだと自慢していましたが、実際には自ら耕さないと食べられない貧家(ひんか)に過ぎませんでした。その為、シャルロットが13歳の時に母親が死ぬと彼女はカーンの修道院に入れられます。

封神伝(書類)

 

修道院時代のシャルロットは、読書を愛する物静かな女性であり、ルソーやヴォルテールのような社会思想家や、古代ギリシャの歴史家プルタルコスの対比列伝を愛読していました。

 

このままなら、彼女が暗殺の天使になる事もなかったのですがフランス革命の奔流(ほんりゅう)は、静かな彼女の生涯にも押し寄せます。革命政府が特権階級である聖職者を攻撃し、修道院を閉鎖に追い込んだのです。


急進的なジャコバン派を毛嫌いするシャルロット

君主論

 

修道院を出されたシャルロットは叔母のブルトヴィユ夫人のもとに身を寄せますが、革命の熱狂に彼女も飲まれていきます。しかし、修道院育ちで元々大人しい性格の彼女が男に混じり議論をするという事はなく、そのような政治集会に熱心に参加していただけでした。

 

政治集会に参加していた男たちは、誰もシャルロットを気に止めてなく後に彼女がマラーを暗殺した時には、え?あの娘がと驚いたそうです。

幕末 帝国議会

 

当時のフランスでは、革命右派で穏健な自由主義思想のジロンド派と過激な社会主義思想のジャコバン派がいましたが、ジロンド派はパリ以外の農村部で人気があり、ジャコバン派はパリの労働者や中産階級の意見を代表し農村に無理解な政策を繰り返し農村部の人民に恨まれるという状況にありました。

 

シャルロットも貴族の出であり農村の人間なので、穏健派のジロンド派を支持し過激な社会主義を標榜するジャコバン派を嫌います。ところが議会で多数派を握っていたジロンド派政権は、軍事でも経済でも失策を重ね、フランス人民の支持はジャコバン派に傾いていきました。

 

西暦1793年6月、ジロンド派の主要メンバーが、ジャコバン派の首領ロベスピエールに逮捕され中央の支持基盤を失います。この時、新聞の力でジロンド派を攻撃し市民を煽って蜂起させたのが人民の友、ジャン・ポール・マラーでした。

 

【人類が発明した時の記憶装置カレンダーの世界史】
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マラー殺害を決意する暗殺の天使

暗殺の天使 シャルロット・コルデー

 

パリでの抗争に敗れたジロンド派の議員はシャルロットのいるカーンに落ち延びてきました。ここで、シャルロットは、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴやシャルル・バルバルーらジロンド派議員と接触する機会を持ちます。とはいえ、彼らと議論するわけでもなく彼らの思想信条を熱心に聞いていただけでしょう。

 

元々ジロンド派はカーンで義勇兵を集めてパリに戻るつもりでしたが、計画は上手く行かず、さらに落ち延びていく事になりました。その時、シャルロットは心の中で決意したのです。ジロンド派を攻撃しフランス人民を苦しめる自称人民の友、マラーを殺害しようと・・

 

you don’t have to worry worry

守ってあげたい

あなたを苦しめる全てのことから~

内容に納得がいかないkawauso様

 

はい、ここで「何で?」と思った人は情緒に流されない冷静な人ですね。何でマラー暗殺なの?殺すんなら、ジャコバン派の首領のロベスピエールなんじゃない?

 

それが分からないんです。どうしてシャルロットが選びに選んでマラーを殺そうと考えたのか?

 

シャルロットは、どうもマラーこそが諸悪の元凶と信じ込んでいたようで、マラーを殺す事で10万のフランス人民が救われると大真面目に裁判で供述していました。

 

あくまでも噂ですが、ジロンド派の兵士にシャルロットの恋人がいて、その恋人が戦死したのをマラーのせいだと逆恨みしたとも、マラーは新聞を発行していて過激な言論で注目を集めていたせいで、ゴシップのネタになりやすく、それを真に受けたとも・・・

 

兎も角、シャルロットの中では、マラーはフランス人民の敵であり、暗殺するのは正義の行いだと、そう確定してしまったのだけは間違いありません。


7月13日マラー暗殺

 

西暦1793年7月9日、シャルロットは叔母の家からパリに単身で上京して7月11日に到着しました。そして、パリの方々で聞き込みをして、7月13日にはマラーの住所を突き留めます。

 

シャルロットは、アポなしでマラーの住所を尋ねると、人民の友だけありマラーは門戸を常に開けていてすんなり入れました。しかし、マラーの友人は突然来たシャルロットに不信感を抱き、しばらく押し問答が続きます。

 

シャルロットは、マラーの一派にジロンド派が陰謀を企んでいるので、その首謀者のリストを直接渡したいと粘ります。その頃、マラーは悪性の皮膚病を患い重症で、一日中薬草入りの風呂に入っていましたが、押し問答を聞いて、自らシャルロットを居室に通すように友人に言ってしまうのです。

 

そこで、はじめてマラーを見たシャルロットは絶句しました。

 

彼女の想像するマラーは血に飢えた狼のような非情な殺人鬼でしたが、目の前のマラーは50歳過ぎの深刻な皮膚病に悩む病み衰えた病人だったのです。

 

シャルロットの隠し持ったナイフを握る手が震えました。しかし、シャルロットの手渡した陰謀に加担しているというジロンド派議員のリストを見たマラーはリップサービスめいて言いました。

 

「有難う御婦人(ごふじん)。出来るだけ速やかにリストの連中をギロチンに送ってあげよう」

 

シャルロットの殺意が再び甦りました。

(ああ、やはりマラーは人民の敵だ、見た目の弱々しさに誤魔化(ごまか)されてはいけない!!)

 

シャルロットはリストを見ているマラーに突き進み、その胸に両手で深々とナイフを突き立てたのです。

 

マラーは「助けてくれ、親愛なる友よ、、」と叫んだだけで、まもなく絶命しました。

シャルロットのナイフは心臓を貫いていて、男でも出来ないほどに正確な一撃だったそうです。

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