織田信長は努力家!負け続けの美濃攻略戦を解説

2020年8月6日


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美濃攻略戦を解説(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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中美濃に侵攻し関と堂洞城を陥落させる

幕府の旧式軍隊(兵士・モブ)

 

これに対して、関城(せきじょう)堂洞城(どうほらじょう)加治田城(かじたじょう)は結束して織田家の侵攻に対抗しようとし、再び信長に立ち塞がりました。しかし、今度は信長にツキがありました。加治田城の佐藤忠能(さとうただよし)が織田方の丹羽長秀(にわながひで)を頼って信長に寝返る事を打診してきたのです。

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

信長は、これを快諾して黄金50枚を与えて、食料を城内に備蓄しておくように命じ、敵対している堂洞城に攻撃を仕掛けて奪取しました。堂洞城と加治田城が陥落した事で、関城は孤立、織田と佐藤父子の連合軍により攻略されます。中美濃が織田家の支配下に入った事で、東美濃の遠山氏が織田家の軍門に降りました。これにより、信長の美濃攻略は大きく前進していきます。

 



永禄9年(1566年)足利義昭が信長&龍興に和睦を呼びかける

逃げ回る足利義昭

 

永禄9年(1566年)足利義昭が信長と龍興に上洛軍の出兵を要請します。足利義昭は、兄の足利義輝を永禄の政変で失い、六角義賢(ろっかくよしかた)武田義統(たけだよしむね)朝倉義景(あさくらよしかげ)のような有力大名の庇護(ひご)を受けつつ、近畿を支配していた三好三人衆を打倒し室町将軍として再起しようと考えていたのです。

 

そこで、武田や上杉、斎藤、織田のような有力大名に手紙を出して、上洛を手伝わせようとしていました。信長は、義昭の和睦要請を受け入れて斎藤龍興と和平を結びますが、いきなり裏切られ河野島(かわのしま)の戦いで大敗してしまうのです。

ちょっとしたことでブチ切れる織田信長

 

大恥をかかされた信長は、斎藤龍興を絶対に潰さないといけないと強く決意しました。

 

永禄10年(1567年)8月15日稲葉山城陥落

炎上する城a(モブ)

 

永禄10年(1567年)4月上旬、織田信長は木曽川の大河を渡り、美濃国の加賀美野に軍勢を集結させます。斎藤龍興は井口から軍勢を出撃させて新加納(しんかのう)の村に兵を配置して準備につきます。両所の間は難所で馬の足場も悪く、信長はその日は帰陣しました。

 

同年、8月1日、斎藤家の有力な家臣である稲葉良通(いなばよしみち)安藤守就(あんどうもりなり)氏家直元(うじいえなおもと)が織田信長に内応を約束し人質を出す事を約束します。信長は、村井貞勝と島田秀満を受け取りに向かわせつつ、すぐに兵を集めて美濃に攻め入り井口山と山続きの瑞竜寺山(ずいりゅうじざん)へ駆け上りました。

 

織田軍の迅速さに斎藤龍興は対応できず、その間に信長は稲葉山城の城下町の井口を焼き払い、稲葉山城を丸裸にしてしまったのです。8月14日、信長は城普請の分担を決め、城の周囲に鹿垣を作って閉じ込めました。翌8月15日、城内の美濃衆が降参、龍興は舟で長良川を下り伊勢の長島へと逃亡します。こうして、信長はようやく美濃征服を完成させたのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

織田信長は、斎藤義龍が死んだ永禄4年から考えても美濃攻略に6年も掛けています。それもその筈、美濃は豊かな土地で石高も54万石を保有していました。信長としては、どれだけの負け戦を繰り返そうとも、どうしても軍事力の源泉として美濃の富が必要だったんですね。

 

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織田信長スペシャル

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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