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この記事の目次
本願寺と比叡山焼き討ちでの動き
1571(元亀2)年になると、四国に撤退していた三好三人衆が再び京に攻め上がります。
そして今度は同時に大坂にある石山本願寺も挙兵。織田・足利連合軍と対峙します。このときの光秀は、まだ義昭・信長というふたりの主君に使えている状態。そしてこの年の9月には比叡山焼き討ちが行われます。
この背景には、浅井・朝倉連合軍との戦いがありました。1570年の姉川の合戦で織田軍が勝利を収めるも、浅井・朝倉は比叡山に立てこもります。平安初期に最澄が開いた比叡山に逃げられると、信長といえども容易に手が出せませんでした。正親町天皇の調停などで和睦が行われるも、信長の支配している周辺ではゲリラ戦がおこわなれたり、石山本願寺との戦いなど、いわゆる信長包囲網が形成されていました。そんな状況で信長は、半ば要塞化した比叡山を無力化するために焼き討ちを決意します。
その作戦の中心的な実行部隊が光秀でした。当初光秀はこの焼き討ちに反対でしたが、最終的に信長の命令に従います。比叡山を3万の兵が取り囲みました。慌てた比叡山は黄金を渡して攻撃中止を祈願するも、信長は受け入れずに追い返します。そうして総攻撃の合図とともに光秀らは山に火を放ち、徹底的に建物などを破壊しました。このときの光秀の対応は、非常に手厳しいものであったと言われています。そして戦後処理を任されたのも光秀でした。
信長家臣初の大名として坂本城の築城
大津にあった宇佐山城を任されていたころの光秀はまだ、信長、義昭のふたりの主君に仕えていました。しかしこの比叡山焼き討ち前後に、正式に信長の直臣になったと言われています。比叡山焼き討ちでの活躍が認められた光秀は、1571年(元亀2)に近江国の志賀郡を与えられました。これは5万石相当の領地で、信長家臣の中で一番早く大名としての扱いを受けています。
つまり秀吉よりも数年早くそのような地位を受け継いだ光秀は、信長からは高い評価を得ていたことがうかがえます。また焼き討ち後の比叡山の監視。それからまだ北近江の浅井など、敵対勢力が残っている琵琶湖沿岸部での制海(湖)権を獲得する狙いもありました。
信長から領地を得られた光秀は、さっそく坂本城築城に取り掛かります。この城には天主も建てられていたとの記録も残っています。
さらに後に信長が建てた安土城に次ぐくらいの素晴らしいものであると、キリスト教の宣教師・ルイスフロイスが残した「日本史」の中で記述しています。以降、光秀はこの坂本城を拠点として、信長直参の立場で近江国の平定を目指すことにあります。
光秀は後に丹波を平定し、居城を亀山に移しますが、坂本城の城主の立場を崩さず、本能寺の変の後に行われた山崎の合戦での敗退後、坂本城に戻って体制を立て直すことを考えていました。
義昭追放室町幕府滅亡の遠因?
1571(元亀2)年、信長より、5万石の所領をもらい坂本城主となった光秀。このころから、幕臣として支えていた将軍義昭に見切りを付けようとします。この年の12月に義昭に暇願いを出すも、不許可となっているという記録が「曾我助乗宛暇書状」として残されています。また旧比叡山領の支配をめぐって、信長と光秀が一時対立。その結果、義昭と信長との対立を引き起こしたという説もあります。
とはいえ、翌、1572(元亀3)年に河内の国に出兵した際には、まだ光秀が幕臣のような立場とも思える出兵をしたという史料もあるほど、完全に信長の家臣とは言えない状況だった可能性があります。
明確に信長寄りになったのは、その次の年に義昭が信長に対決しようとしてからです。これまで義昭は信長を倒そうと、武田信玄など周辺の有力大名を使って追いつめていました。いわゆる信長包囲網とよばれるものです。
信長は追い詰められながらも確実にそれらを打ち破り、義昭の野望が崩れ去ります。
4月に義昭自ら出兵するものの、圧倒的な力の差がありながら、信長は義昭の命を取ること無く、朝廷の仲介でいったん講和します。しかし懲りることなく7月に再度信長に反旗。南山城の横島城で抵抗するも、やはり圧倒的な力でこれを包囲。ここには光秀も織田軍の一員として従軍しました。そしてあっけなく降伏した義昭はついに追放され、室町幕府が滅亡します。
丹波攻略で人質になった母親?
義昭追放で元号を天正と改めた信長とそれを支える光秀。京都の政務は、この年に村井貞勝が京都所司代に任命されてからもしばらく担当しており、連名での文書などを出した記録が残っています。1575(天正3)年になると光秀は惟任と、従五位下日向守の任官を受けます。この時点で織田家重臣になったとされます。
ここから光秀は新たな命令を信長から受けます。その間、長篠の戦いや越前一向一揆にも従軍していましたが、それ以上の大役として丹波攻略を言い渡されます。ここにいる国人衆は義昭派だったこともあり、将軍追放で、反信長派になっていました。
この作戦は1579(天正7)年まで4年近くかかって行われました。この途中には信長に謀反を働いた荒木村重の戦いや石山本願寺の合戦に参加するなど、丹波だけを攻撃しているのではありません。
また三女の玉子(後の細川ガラシャ)を細川忠興の元に嫁がせますが、これは信長による政略結婚でした。この丹波平定で光秀の母が人質になり、殺害されたといわれることがあります。
これは平定の最中に反旗を翻した波多野秀治が光秀軍を攻撃したことから始まります。信長は激怒。
光秀に侵攻を命じます。光秀の攻撃のすさまじさに波多野勢は光秀に降伏。人質として安土城に送られるもそこで磔にされます。この事実を知り、波多野勢に人質に出ていた光秀の母を、残された家臣に寄り殺されたというもの。しかし状況からして光秀の母を人質に出す必要性が薄いことから、これは創作という説が現在は根強いです。ちなみに波多野一族は光秀の猛攻により最終的に全滅させられました。
信長からの高い評価・近畿管領?畿内方面軍の成立
1579(天正7)年8月に丹波を平定した光秀は、藤孝とともにその北にある丹後の国も平定します。この働きに信長は光秀をほめたたえています。翌年には丹波一国が光秀のものとなり、近江の所領と加えて34万石の国持ち大名になりました。そして横山城を改築し「福知山城」としています。ここには2年前に光秀の娘を妻に迎えていた明智秀満が城主となりました。
そして信長は光秀に対する評価は非常に高く、この畿内地域を束ねる存在として扱ったことです。同じ国持ち大名だった丹後の藤孝、大和の筒井順慶は、光秀の寄騎として組下大名と扱われます。これは織田軍近畿方面の総司令官のようなもの。近畿管領とも言われています。
とくに当初は藤孝の家臣からスタートしている光秀は、藤孝との立場がここで逆転しています。この頃には秀吉が中国方面、勝家が北陸方面といった具合に、織田軍が天下を統一するために重臣を各地に送って、戦いを繰り広げていました。
そんな中1581(天正9)年には、明智家中法度5箇条を制定しています。これは光秀家臣団が大きくなったことで、統率のために制定されたもの。具体的には、織田家の宿老・馬廻衆への儀礼、他家との無用な口論や喧嘩の厳禁を求めています。特に後者は違反すると自害もしくは光秀による成敗という大変厳しい物でした。
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